「ア
ンシクロペディスト、」
僅かに空気が凪ぐ気配とほぼ同時に乾いた声、が。
「……」
「アンシクロペディスト。字数も合ってるでしょ」
振りかえるのも億劫で、しかし聞き流すには惜しい声音だった。は?と意地悪く聞き返す前に、ぎりぎりまで音量を落とした目の前のブラウン管から同じ語句が流れる。
『難しい問題ですねー』
『普通知りませんよ』
背後で寝そべる男は著しく『普通』の枠からはみ出ているから知っていて当然か。少し病んだような掠れた声に二度目の敗北をきす前に解説が始まった。
『百科全書派の事ですね。啓蒙思想家の集団でその代表は――』
「ボルテールとルソーとエルベシウス、あとドルバック……かな」
「無駄知識、」
「無知は罪だよ、シズちゃん」
忌々しい事にテレビは全く同じ人名を紡いだ。
『えー全然分かりませんー』
ガラス製のローテーブルの上には、さっきから量の減り続けているワインボトルが鎮座している。途中からグラスに注ぐのが面倒になって、瓶に直に口をつけた。らしくなく甘い系統の、しかし『らしさ』を語れる程そいつを知ってるわけでは無く。
「余計なこと覚えすぎて頭重くなんぞ」
「教養と言って欲しいな、俺育ちがいいから」
「どこのおぼっちゃまがこんな外道に育つんだ……」
このふざけた男のタチが悪いところは、やろうと思えば本当に優雅に振舞えるところだ。
鬱陶しい笑みを見たくなくて振りかえらなかったが、テレビの仄かな緑光を受けて、ぼんやりと闇に浮かぶ白面はきっと世界の毒に値する。
「アンシクロペディストか。知りたがりの活字中毒―――まさに、」
「おまえだな」
「……どうだか」
知りたがりはシズちゃんでしょう、
俺の底を浚いたがってるくせに。
戯言と蜜言の区別がつかない俺たちは、互いに嘆息して酒を煽りあった。
この空間内の全ては彼の物だ。乾燥して冷えきった、そのくせ微妙な熱を内包した空気さえ。
(……多分俺も)
口にすれば負ける。
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痛みはついに大々的な繁栄を諦めたらしく、しかしそれは小規模な永続と同義語であった。こめかみ近くで存在を叫ぶ疼痛は少しずつ周期を短くしながら、少しの刺激に簡単に飛び跳ねる。
「ねぇねぇ。痛い?痛い?」
今日の敵は昨日も敵だった男。俯せに机に沈む俺の前で、頬杖をついてにこやかに笑っている。
「ねぇー」
「うっせぇ殺、すぞ……」
「あはは、大音量は己を苦しめるんだよ。自然の摂理だね」
「っ触んな……!」
「飲み過ぎて潰れるバーテン。情けない」
やわやわと髪をいじくる手をぱあんと払いのけた。
「いたいなー」
僅かに赤らんだ手の甲を懲りもせず俺の頭に擦り付ける。なんだこの生物。
「ねぇねぇシズちゃんさぁ、ベッド行った方がいーんじゃない?動けないの?お姫様抱っこしてあげようか?」
「どのクチが……」
「君軽いじゃん」
「テメェよか重いわ!」
「針金」
「ならテメェは待ち針だ待ち針」
露骨に厭そうな顔をして、なんなのさーもう、うざい、ってそんなの俺が言いたい。妙に間延びしたしゃべり方だって俺を苛つかせる為の演技のくせに。うざい。
「たまに優しくしときたい衝動に駆られるのさ」
「どんだけ自己中だよお前……」
「知ってるくせに」
細い指先がつ、と鼻をなぞって唇に触れる。何かを拭うような、或いは何かを擦り付けるような、不覚にも全神経を束縛される触り方で。
「知ってるくせに」
掠れた声すら演技だと理解する脳は、空気に流されろと矛盾した命令を下して俺の瞼を閉じさせた。
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噂の同期さんはあろうことか二人とも同じクラスだった。どちらもこれでもかというほど対極にいる存在で、唯一の共通点は名前が仰々しいことくらい。
(うわ席近っ……)
片方は若い女の担任がちょっと、いやかなりうふふと微笑んでしまったくらいの美形で、見た目どおりの響きのよい声で、とんでもなく爽やかに頭のよい挨拶をした。地味な黒髪頭のくせに目立つ。しかも俺の視界にばっちり入る。男子としてはああいうのが一緒の空気を吸うのはちょっといたたまれない。俺はクラスの女の子にはまったく興味ないけどね!
(すっごい造り笑顔ー……)
多分なんか危ない橋を嬉々として渡るタイプだ。友達候補リストから除外。俺は平穏に生きる。
もうひとりは、とちらりと視線をやると、厭でも目に付く金髪長身。眉間の皺と手足の細さが比例しない、えーとつまり、怖いんだけど黙ってたら普通な感じの。つまり超厄介。
担任が泣きそうな顔で座り方を注意した。
(ってかやばいって、怖いって)
目線で人殺せそうだ。これもリストから、というかむしろ意識から除外。俺は平穏無事ライフを送るのだ。
決心したところでチャイムが鳴って、顔合わせの気まずいHRが終了。よし、まあ初日はこんなもんだ。
さっさと帰って彼女に会おう、と席を立ち――
「あ、あのさ」「おまえ、」
「――!?」
「何チラチラこっち見てたんだ、あ?」
「ちょっと俺が先に声かけたのに」
「いや、えっと――」
「痛そうな顔してるじゃん、離してあげなよ」
「ひっこんでろ」
「うわあ何様ー」
「なんだよお前、ってかオイお前も答えろよ」
「ええっと、その」
「俺が先だっつってるでしょ。あ、顔色悪いよ、大丈夫?――岸谷、君」
眼鏡のレンズ越しに――ドス黒と尖った金色が、ゆらゆらと。
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エンドレスリピート。たぎる劣情はアレグロで駆け。
エンドレスリピート。伸ばした指はフォルタメントに震え。
エンドレスリピート。えげつない微笑はワルツの速さで。
エンドレスリピート。レガート一家は惨殺された。
エンドレスリピート。血塗れ大嘘ソルフェージュ。
エンドレスリピート。ミステリオーソに外道を飼えば。
エンドレスリピート。いっそ死ぬほどシャープを刺してほしいのに。
エンドレスリピート。半端な殺意はいつまでもフォルテのままで。
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遅れて響いた轟音と、それにかぶさる銃撃のような雨音についに耐えられなくなったのか、
「うわあ、すごいねえ」
臨也はがたりと席を立ち、ブラインドを全開にした。
白い閃光が夜闇を裂く。
「これはすごい」
「停電すると思う?」
新羅の問いは完全無視で、臨也は目を細めて微笑う。
「神の鉄槌かな」
聞いてないよねー、と新羅は肩を竦めて再び資料に向き合った。卓上のミニスタンドはさっきから心もとない点滅を繰り返している。手元の白い紙に前髪の影が幾度も揺れて舌打ちした。
空調のききすぎた部屋の中、聞こえる音は自分たちの呼吸と紙を擦る音、あとは外で荒れ狂う轟音のみ。
じっと黙って自分の仕事をしていたはずのお向かいは今は空。そこの席の主は、大きな窓ガラスにぺたりと手をくっつけている。
「稲妻の形がはっきり見える。近いね」
「はしゃいでんの?」
「鳴る神――だよ」
「無神論者が何を言う」
「目に見える神っていうのも悪かないだろ?」
ついには額をガラスにつけた臨也に、新羅は大きく嘆息した。後で拭かせるからね。
雷雲は近づいてきているのか、目も眩むような光の攻撃と爆音はその間隔を確実に狭めている。唇の端を吊り上げて窓に張り付く臨也の、その子供じみた行動に新羅は可笑しくなって素直に笑った。
短く息を吐く様な、さりげない揶揄を込めて。
「 」
ああ、鳴る神の宣託と被ってしまった。今のじゃ聞こえていないだろう。
「なんか言った?」
振り返ったその顔は綺麗に歪んだ微笑で、実は聞こえていたのでは、と勘繰る。
「別に」
轟々、雨脚は怒り狂ってガラスを叩きつける。聞くな言うな、言うな聞くな。
持続の困難さを知っているのであれば。
(今のままでも、多分)
自虐を唇に乗せた新羅に、臨也は何かを呟いた。視界を真っ白に灼いた白雷のせいで、その表情は分からなかったけれど。