間違っていたのは静雄だった。




右手の袖の中に、どういう仕掛けかは分からないが、ナイフが一式仕込まれていることは知っていた。準備しているところを見たわけでもなければ、本人から聞いたわけでもない。ただの経験則に基づいた面白くない事実。体重をのせて飛んできた拳を避けて、避けたついでに掴んだ腕の、その半端な頼りなさに瞠目する。折ってやろうとか、握りつぶそうとか、そんな意図はなかった。元来、そういった蛮行が好きなたちでもないのだ。静雄の中には暴力があり、そいつを閉じ込めている小さな部屋が確かにあるのだけれど、暴力の方が勝手に扉をがたがた言わせているだけで、彼本人がドアノブに手をかけたことはあまりない。


臨也だけが、奇妙な無防備さでいつもそのドアを蹴破る。


「いたっ」


いっそ少女のような薄っぺらさで腕が鳴った。上擦った非難の声はもしかしたら悲鳴だったが、同時に嘲笑であるようにも思えた。なんだ折らないの。それとも折れないの。

――馬鹿なシズちゃん。


「っ、ら、」

地面に顎を激突させるのが一番早いと思い、静雄は一気に腕をひっぱった。がくん、と前のめりになった黒いコートが、自重と重力に負けて膝を折る。フードについた真っ白なファーがふわりと揺れて、春だとか、砂糖だとか、場違いにも程があるような、そんなものを瞬時に夢想した。

臨也は猫に似ていると、静雄は常々思っている。口にしたことはない。


背中に肘を一発、沈んだところをひっくりかえして、仰向けの腹に馬乗りになる。息が上がって苦しいのか、く、と反らされた顎から鎖骨にかけての線が、壊れた玩具のような早さで上下した。目じりに水の膜が張っている。久々にきちんとした打撃を入れた。銜えたままだった煙草を、臨也の息の早さに合わせて上下してやると、心から憎たらしそうな双眸が静雄を焼いた。

「……んだよ」
「さいってー」
「お前だろ」
「知っ、てるよ」
「息吸えよ、死ぬぞ」
「シズちゃん、が、乗ってるから、無理」
「じゃあ死ね」
「やだ」


やだ。舌打ちひとつ、それで用無しとばかりに舌を出す。そのまま喘げと言おうとして、静雄はふっと思いなおした。それではあまりに犬のようではないか。硬い地面に背中をつけた臨也は、腹の上に仇敵を乗せて少ない酸素を吸っている。肺ばかりが膨らんで、言葉はひとつも吐き出せないようだった。汗に濡れた髪が首にはりついている。やはり猫のようだと思う。きゅっと深くなった眉間の皺、切れあがった目の端の色。獣くささは無かった。ただ、たちのぼる苛立ちだけが、黒猫じみた薄気味悪さでそこにあった。

「シズちゃん、」
「なんだ」

仰け反っていた顔がかくり、と戻る。ろくな反撃もあるまいと思って放置していた右腕がVネックの襟元にかかり、


「あつい」


生地を無理に引っ張る無粋な右手を引きはがして、鎖骨に歯をたてながら、静雄は頭の裏で呻くように笑った。間違っていたのは自分だった。自分の中に暴力の部屋があるのは本当だけれど、その扉はそこにはない。臨也が蹴破っていたのはただのきっかけで、……本来の扉はこの皮膚の下。犬みたいだねと臨也が呟く。もうすぐ左の腕からナイフが飛び出てくることを、静雄は獣のような純粋さで知っている。