不文律は相互理解への不必要な努力の回避。こう言うと四角張って聞こえるがなんのことはない、波江とその雇い主が自然に作り上げたこどもっぽいルールだった。目に見えない柔らかな縛りはまさに暗黙の了解たるもので、破られる心配も破る必要性もそこにはなかった。波江の中で究極の肉体美はすべて弟が担っていたし、雇い主も波江に頭の柔らかさを求めることはあっても、女のそれを乞うことはなかった。もっとも雇い主のほうは一方的な理解に快感を覚えるたちだから、本当のところは分からない。

「……、」

くい、と袖をひかれて波江は振りかえった。肌に染み込んだに最低限のファンデーション、その上にきらめくように微かな苛立ちがのっている。波江の袖を握ったまま、雇い主は肩をすくめてみせた。臨也などという大仰な名前を口にする必要はない。呼ぶまでもなく目線が合っている。

「何よ」

本当は呼び止められた時点で要件は分かっていた。紙幣と共に突き出された小さな紙を受け取り、ざっと目を通す。臨也は黙って彼女を待っている。走り書きすらもどこか軽薄で、微妙に斜めになった箇条書きが紙から滑り落ちそうだった。

「風邪薬は」
「……」
「苦いからって飲まないんじゃないでしょうね。仕事にならないわよ」

子供扱いではなく、一部下としての苦情を、だが臨也は微笑んでやり過ごした。波江から再びメモを奪い取り、壁に叩きつける。仕込まれたとは思いたくないが、彼の目線より速く、波江の手は近くにあったボールペンを拾い上げ手渡していた。カッ、というノックの音が、呼吸に静かに上塗りされる。沈黙。

『喉がやられただけだから』

だから、に続く言葉を待ったが、書き言葉をそれほど持たない雇い主はすぐに手を止めた。ぺらぺらと良く回る口が指先に伝播しないのはどうしてだろう。臨也を抽象化しろと言われたら、波江は真っ先に白い丸を描くつもりだった。まず外枠。大きく美しい、限りなくなめらかな造形。そしてその中にいくつも黒い汚れを描く。行き詰った漫画家がよくやるような、ぐしゃぐしゃとした線の塊、なれの果て、汚点、雑音。それはすべて臨也の言葉だ。外に放り出されれば綺麗な星屑になって誰かに突き刺さるけれど、それ以前、臨也の中に渦巻いている形状は悲惨で陰鬱。それ以外考えられない。考えたくもない。

「遅くまでふらふら歩きまわってるからそういうことになるのよ。書き忘れは?」
「……」
「メールで対応できる仕事は全部やっておいて。……夕飯作ったら帰るけど良いわよね」
「……」

否定と肯定を一度ずつ。短い黒髪が揺れて、最後に波江を見据えた両目、その縁が少し赤い。熱が出始めていることになんとなく気付いたが、どちらも何も言わなかった。

『いってらっしゃい』

袖ひとつで呼び止められて、ペン一本で飼いならされて、……こうして薄っぺらな書き言葉の残骸ひとつで送りだされる。きっと帰ってきた時には、おかえり待ってたよ、などという、心にもない定型文が自分を迎えるのだ。波江は黙って肩を竦め、その動作があまりにも彼に酷似していることに気づいて慄然とした。口数も目線の動きも、何も分からないままで良かったのに。触れないままで終わるはずだったのに。

「……、」

今度は波江が言葉をなくす番だった。壁に縫いとめられたメモをむしり取り、唇をかみしめて玄関に向かう。音もなくついてきた臨也が、いつもより少し虚ろな目でひらひらと手を振った。たとえ書き言葉まで失くしても、この男の黒い雑音を読み取れるかもしれない。そんな恐ろしい悪寒が波江に走った。風邪がうつったのだと思いこまなければ、引き結んだ唇から甲高い悲鳴がほとばしりそうだった。悲鳴はきっと流星群になって、臨也に突き刺さるだろう。波江の愛する弟にではなく。