たとえば向かいの椅子が空席であることが、アレルヤにとって容易に思いつくシチュエーショ
ンのひとつだった。年代を調べるのも馬鹿らしいほど古いフィルムでそれを観た。戦地に赴き、
そして帰ってこなかった夫と、その男のいない椅子を眺めてぼんやりする女の図。わかりやす
い孤独。絵に描いたような喪失感。今よりもだいぶ若かったアレルヤは、その何とも言えない
沈黙が手垢で汚れていくのを嫌ってフィルムの再生を止めたのだった。狙い澄ました短調を奏
でるピアノも、わざと震えたような書体でスクリーンに縫い付けられていく字幕も、何もかもがい
らなかった。説明も装飾も不要だった、アレルヤの中のもうひとりは役者さえ必要ないと嗤って
みせたのだった。なにかを失くしただけのことをどうしてそんなに飾ろうとする?どう答えたかな
どとっくに忘れてしまったが、答えすら必要としない感傷は確かにアレルヤの中にある。中に。
 
 
「そしてこれはあまりに無駄なこと、」
 
 
 
 

 

アイルキスユー   1

 

 

彼がそのレストランに入った時、時刻はすでに午前零時を回っていた。店内に流れるジャズはぎりぎりまで絞られ、聴覚の鋭敏化したアレルヤでさえ気をつけないと聞こえづらい程だった。アレルヤはレジにいた女に軽く会釈して、迷わず窓際の席に着いた。4人がけである。アレルヤの記憶では、ここに4人で座ったことはなかった。ここではたった2度食事をしただけ。2度とも同じ人間と来た。
 
「・・・コーヒーを」
 
眠たそうな足取りで近づいてきたウエイトレスにそれだけを注文する。明らかに招かれざる客なのだ。しかも一人で、・・・ほんとうに正しく一人で。
(僕は一度に二人を失くしたんだろう)
まるで失せ物みたいに簡単に。
 
アレルヤは温いコーヒーが運ばれてくるのを横目で見ながら、ずっとコートのポケットに入っていたメディアプレイヤを取り出した。そういえばコートのボタンがひとつ取れている。(ここにも失せ物、)ただボタンと大きく違うのは、探すという行為が呆れるほどに無駄だということだけである。失くすことの難易度はさほど変わらないにも関わらず。
 
「・・・あの、」
「なんでしょう」
「・・・・1時間で帰りますから」
「・・・ごゆっくり」
 
ハレルヤがいれば全力で罵倒されそうなくらいの弱弱しさで以てアレルヤは笑った。
(だってもう無駄だよ、)
ガチン、と時計の針が大きく動く。回想だけが速まって。
(最後に来た日は、晴れていたんだ)
強く瞼を閉じてイヤホンを耳に押し込んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
もうずっと昔のような、春の真昼の事である。
「ドウゾ!ドウゾ!」
ごろごろと床を転がった後、滑るように出した腕で椅子を引いたハロに、ロックオンは堪らないといった様ににんまりと笑いかけた。
「おまえは、賢いなァ」
「スワル!スワル!」
「そうそう。ただしそれはレディにするモンだからな?」
「あなたをレディと思ってるんじゃないですか?」
「今日はアレルヤの奢りかー」
「え・・・」
 
注文を取りにきたウエイトレスがクスクス笑っている。素敵なお連れ様ですね、家庭用ペットAIですか?ええ、まあそのような。可愛らしいわ。
「ランチはもう終わってるんだな、」
「え?あ、はい」
「コーヒー。スイーツは?」
「僕は、良いです」
「ん、じゃあコーヒーふたつ」
「ハロモ!」
「AIには早い味だってよ」
 
ねえ?ウエイトレスは大層ハロが気に入ったらしい、もう一度オレンジの球体に笑いかけて立ち去った。ロックオンはハロをただの機械扱いすることをあまり好んではいないが、流石に遠距離射撃支援の相棒ですとは言えない。目が合うと、ロックオンは悪戯っぽく笑ってみせた。
 
「ハロは紳士に育ちましたね」
「教師が良いんだ」
「イアンに感謝だね」
「・・・ハレルヤは、」
「紳士もクソもねぇ、自分の目の前にあるモン引いただけだろって嗤ってるよ。本能だろって」
「おまえらなあ・・・」
 
それでも地上にいる時のロックオンは、・・・宇宙でもたいして変わらないといえばそうだが、大概陽気であるので、アレルヤ達を軽く笑っていなしてしまう。窓から差し込んでくる光に睫毛の先が透けている。赤茶色の髪がくるりと返って、笑うたびに肩口を滑るのが好ましかった。
 
アレルヤには、とても好ましいひとだった。
 
「しかしまあ、4人がけに荷物も無い男2人っていうのもなんだかな」
「4人で来る未来が全く想像できませんけど」
「・・・おまえが言ってる4人っていうメンバー、」
当ててやろうか?
 
 
 
 
 
 
 
「・・・お客様、」
不意に呼びかけられてぱっと目を開くと、先ほどの眠たそうなウエイトレスがやや憮然とした顔で立っていた。マグの中のコーヒーは完全に冷え切っている。どろりとした白い渦が物も言わず沈澱していた。停滞。
「ああ、・・・すみません」
いつのまにかプレイヤの充電も切れて、ずっと鼓膜を揺らしていた音楽は脳に響くだけとなっている。アレルヤは何故かかじかんでいる手でイヤホンを外し、テーブルに少し多めのコインを置いて席を立った。
 
「またどうぞ、」
「・・・ええ、」
 
もう彼は来ないけど。もう、答えを聞くことはないけれど。
(ボタンのようには探せないけれど)
アレルヤは追い立てられるようにポケットの中を探った。このプレイヤ、渡さなくちゃ。アレルヤ自身はこれを渡された時、渡してきた相手をまじまじと見てしまった。ロックオン・ストラトス。或いはニール・ディランディ。・・・・そして誰にも言ってはいないけれど、ハレルヤ。もういない。もう探せないひとたちを描きださせる音を渡されて、なんだか潰されそうになって目を見張ったのだ。
 
「君は、・・・この感傷を馬鹿だと笑うかい」
 
 
 
耳の奥で音楽が唸り続けている。プレイヤの入っていないほうのポケットに手を入れたら、指先に硬く丸いものがコツンと触れた。
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――

見切り発車です(いつもの