眠りにつく時いつも思うのは、今度起きた時に自分は本当に寝る前の自分のままだろうかと
いう果てのない猜疑だった。もしかしたら自分は薄っぺらな電気信号で、肉体はただの造ら
たボディで、それらは白いチューブで繋がれていて、寝ている間に誰かがそれを引っこ抜い
て新しいボディに繋ぎ直しているんじゃないだろうか。記憶が完全でないのも夢が整合性を
持たないのもそのせいではないだろうか。馬鹿のように眠りに入る自分を見て、プログラマが
自分の脳(と思っているもの)を弄りながら笑っているんじゃないだろうか。意識しない範囲は
すべてカオス。あまりに些細なスペクトル。そのくらいティエリアは世界を疑っていた、世界とい
う言葉すら不確かだった。そして最も彼を驚愕させたのは、初めから彼はひとではなかったの
に、ひとのような猜疑心を簡単に抱いていたという事実だった。それは純粋な、絶望だった。
 

「伸ばした腕が届かないことが何だというのだ、」

 

アイルキスユー     2

 

 

湿気と水気が最大の敵であることはよく分かっていたが、ティエリアはためらいなしにメディアプレイヤをバスルームにもちこんだ。めったに使わないバスタブに湯を張り、赤いバスオイルを数滴垂らす。嗜好でも趣味でも快楽のためでもない。バスタブを使うときはこうするんだと言われたから従っただけである。いわば義務だった。監督するはずの人間はもういない。
 
熱すぎる、と思いながら湯に身を沈め、バスタブから零れたそれがぎりぎり届かない所にタオルを敷いてプレイヤを置いた。ティエリアひとりの家であるから、浴室のドアは細く開いていた。外は寒く、湯気が頼りなく誘われて出て行ってしまう。白いタイルは温もりに潤み、生温かな温度をティエリアの指先に伝えた。人肌。ひとでないティエリアには熱すぎる。湯のほうはもっと熱かった。この温度がちょうどいいと言って笑ったひとを思い出して、ティエリアはぼんやりとバスタブにもたれた。音楽が流れ出す。
 
 
 
 
 
 
 
ティエリアに風呂を教えたのは、言うまでもなくロックオンだった。ティエリアはいつものように、非効率的で非経済的で必要性の薄い趣向だと鼻で笑ってやったのだが、その時雪に降られて凍えきっていたロックオンは、まあいいからとにかく来いよといってティエリアをバスルームに連れて行った。寒い国で生まれたんでしょう、耐えられないなんておかしな人だ。憮然としながら言ったティエリアに、ロックオンはにこりともせず言い放った。刹那だって水を飲むぜ。
 
「・・・刹那・F・セイエイはサボテンじゃない」
「あ、いいなそれ。上手い」
「そんな話をしてるんじゃない」
「俺はしてるけど?」
 
ふふ。ロックオンの笑い声は軽く、彼と同じく冷え切ったティエリアの首筋をふわりと撫でる。ティエリアは氷の視線でロックオンを睨みつけた。ロックオンは気づいているのかいないのか、寒い寒いと喚きながら蛇口を捻る。熱湯が迸り、バスタブに飛沫をあげて流れ込む。
 
「これをさ、まあちょっと贅沢に溜めてだな。オイルを数滴入れるのよ。ワインでもいいけどな」
「ワイン?」
「ブランデーは駄目だぜ?」
「どうして酒を入れる」
「天国に行きたいから、とか」
 
ティエリアは、とか、の続きを待った。だがロックオンはもう一度ふふと笑い、冷たい白い手でティエリアの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。避ける間もなかった。地肌に一瞬で鳥肌がたつ。
 
「つ、めたい!」
「だァから風呂って言ってんの。あのなティエリア、天国は意外に身近だ。お手軽だ」
「・・・熱湯に酒と自分を入れるだけでそんなにハイになれる貴方がお手軽です」
「そのお手軽さに気付かないバカの多いこと。なあ?」
 
天国までの距離なんて誰が分かるというのだ馬鹿らしい、だいたい貴方だって、・・・唇を噛みながら見ている先は誰よりも遠いくせに。言いたいことはいくつもあったが、コンマ2秒でそれを呑みこんで、ティエリアはつんと顎を上げてみせた。
 
「貴方の計画は分かったが、このバスタブは2人で入るには狭いのでは?」
 
一瞬の後、ロックオンは素晴らしい勢いで噴き出した。ティエリアをああまで赤面させたのもロックオンが初めてだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「・・・・・・・・・、」
最初にループ再生を押したから当たり前だが、メディアプレイヤは休むことなく歌を流し続けている。ティエリアは天井を向いたままずっと目を閉じていた。鼓膜がびりびりと揺れる。水面すら揺れているような気分になった。歌声は確かに遠いのに、タイルで、壁で、部屋中至る所で反響して、ティエリアを悪酔いさせる。身体の存在が危うい。ティエリアが毎朝感じる不安感によく似ている。
 
「・・・アレルヤ・ハプティズム、君は、」
 
どうしてあんなに揺らいだ目をしていたのか、歌に酔わされた今ならよく分かった。・・・これを、聴いてほしい。まっすぐにティエリアを見ながら、そのくせ何も見ていない目で静かに言ったアレルヤは、このメディアプレイヤをそっとティエリアに渡したのだった。アレルヤにこれを渡したのが誰かなんとなく分かったから、ティエリアも突き返すようなことはしなかった。
 
「こうなると分かっていた、のに」
 
曲は止まらない。歌は途切れない。ティエリアは強く唇を噛んだ。このリピートが終わったらバスルームを出ることを決める。ここでダメにしてはいけないプレイヤだった。まだ聴かせなければいけない人間がいる、そう思って目を開けるが、視界は依然水気を多く含んだままで。
 
「・・・・・・・熱すぎる」
 
滲む瞼を震わせて天井を眺めてみても、天国はちらとも見えてはこなかった。濡れた前髪から雫がたれて目尻を伝う。ふたつの雫は混じり合って、どちらがティエリアのものか分からなくなった。(今ならごまかせる、) 誤魔化す相手はもういない。もういないのに。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ティエリアは立ちあがる。
最後の音がふっと消えた。