貴方を忘れないわといつか抱いたおんなが言ったことがあった。ライルはそんなこと不可
能だろうけど出来ればそうしてくれと答えたのだった。その返事は愛してると同じくらいの
軽さとしておんなの中に吸い込まれていった。もし貴方を忘れれば思い出すしかないで
しょう、記憶なんて思いだす度に塗り替えられるのよ、つまり記憶は汚れてくってことね。
俺はあんたに汚されるわけかいとライルは笑った。強姦かもねとおんなは物騒な言葉を
吐いて唇を重ねてきた。ライルの息はまたおんなの中に吸い込まれていく。軽いだろ、
だって愛してると同じくらいの重量だからさ。口にしなかった自嘲或いは嘲笑が、逆に
の中に留まってずしりと重くなった。ライル愛してるわとおんなが囁く。俺を汚さないでくれ
よとライルも囁く。貴方お兄さんと違って前向きねとおんなが笑う。ライルは目を閉じた。
 
 
 「歩き出す時はきっとひとりだ、」
 
 
ア イ ル キ ス ユー  4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
唇を人差し指でじっとりとなぞった。微妙な凹凸が冷え切った皮膚を通して脳に送られてくる。よれた唇はおんなのそれよりも遥かに薄く、そして冷たい。ライルは意識して笑ってみせた。記憶の中のおんなはその笑みをニヒルねと言った。ライルにとっては、それは他者との比較によって生まれた感慨でしか無い。
 
「・・・・寒いねぇ」
 
ケルディムのコックピットの中である。すべての機器の電源を落としているから、視界に入る光は外部から差し込むもの、つまり収容スペース内の照明しかなかった。白熱灯。薄ぼんやりとした白い光。教会のステンドグラスを透かすような日光とは比べ物にならないくらいに、冷めて乾いている。ライルは唇から離した指をじっと見つめた。少し前までは濡れていたのだと思うと、ひどく可笑しい気分になった。おんなの躰から滲むそれを、君との愛だと表現した文学者がいた。じゃあおとこから滲むものは何だ、とライルは思う。おんなの躰が愛なら、おとこの躰から滴るものは何だ。
 
 
「不毛なことは好きじゃねぇんだけどさ、」
 
刹那に渡されたメディアプレイヤが、ライルの目の前にある。当然濡れも壊れもしていない、機械故の整然とした冷たさを持ってそこにあった。聴かなきゃいけないのかねえ、と少しだけ面倒に思うが、真摯な刹那の顔を思い出して渋々電源を点けた。1曲入り。膨大な空きメモリ。曲名もアーティスト名も入力されていない。イヤホンをはめるか否か逡巡して、結局耳には入れずに本体の横に置いた。音量をマックスに。音質などどうでも良い。
 
「俺で最後だろ?重たいんだっての全く」
 
00:00、再生ボタンを押す一瞬、刹那の時間。ダブルオー、と低く呟く。面白いジョークでは無かった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ニールのことを考えるとき、ライルは大抵何ともいえない重力を肚の底あたりに感じている。それは死んでしまったペットだとか、会えなくなった教師だとか、そういうものを思い出す感覚によく似ていた。あんなのが傍にいたな、あのくらいの時間を過ごしたな、―――もう会えないな。淡々と事実だけを思い出す作業。第一、思いだす、という動作自体があまり好きではなかった。前向きじゃないし湿っているし、何かが変わるわけでもない。
 
子供のころ、ライルは推理ドラマを観ていたニールに、こういうドラマで自供を始めた犯人が、実は俺たちは異母兄弟で、とか、昔不倫関係にあって、とか言い出すのが気に食わない、と言ったことがあった。犯人しか持ちえない記憶を事件のカギにするのはずるい、記憶の後出しはフェアじゃない―――うまく説明が出来なかったが、ニールは少し笑って、探偵もそれは納得済みだよ、と言った。思い出すっていうのは罪じゃないだろ。大体、ライルが厭だって言ってるのは、記憶というより事実だ。犯人しか知りえない事実。というか過去。ライルは苛立って、意味が分からないと言い捨てた。過去っていうのは思い出すものだろ。思い出すものイコール記憶ってことに・・・ああもういいや、やめやめ。そこでテレビのチャンネルを変えた。乱暴に話を切られたニールは、怒りはしなかったが、犯人気になるだろ、と笑った。月曜に誰かに聞けばいいよ。そっか土日挟むもんな、みんな忘れちゃわないかな。じゃあ思い出してもらえば良いじゃんか。ライルの嫌いなやり方で?―――そうだよ、俺と兄さんはフェアじゃないんだ。何の話だか、と肩をすくめた兄の横顔をライルは今でも覚えている。忘れたことなんてない。だから思い出す必要もない。
 
(それとも忘れたくないだけ?)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ばち、と目を開ける。
もう一周したかと思いきや、曲はまだ一番が終わったあたりだった。どんだけ長いんだよ。立てた膝にあごをのせてライルは舌打ちをした。歌声がコックピットの中を満たしていく。音楽が液体なら、今頃世界中が水浸しだな、と思った。刹那の目も、彼にメディアプレイヤを渡したティエリアの鼓膜も、これを皆に聴かせようだなんて無駄な考えを起こしたアレルヤの指先も、すべてが濡れている。君との愛だ。ライルは声に出して呟いた。君との愛だ。この記憶から滲むものは、何だ。
 
「兄さん愛してる、って言った方が良いのかい」
 
ニールのことを考えると、肚の底が重くなる。忘れたわけじゃない、だから思い出してるんじゃない。誰かへの言い訳のようにそればかりが頭の中をぐるぐると回った。考えることをやめてしまいたい。けれどそうすればきっと、ニールのことを忘れてしまう。八方塞がり、ああもういいや、やめやめ、なんて。子供の逃げ道はどこだ。月曜になれば誰か教えてくれるのか。
 
「・・・なァどう思う、おまえ」
 
 
ライルは手をのばして同乗者の頭を撫でた。愛してるって言った方が良いのかい。彼はいつもと寸分変わらぬ朗らかな声で愛していると答える。お前の言うロックオンてのは記憶の中のそれなのか、―――それともお前にとっちゃ、すべてが現在進行形なのかねぇ。乾いた指先で彼をくすぐった。アレルヤはきっと、彼が起こしたアクションを滴るほどの感傷で以て受け止めたのだろう。もしかしたら通りかかって偶々一番に貰った、というだけかもしれない。感傷はティエリアに伝播し、刹那に渡されて、そしてライルのところに来た。ライルには水の一滴すら感じられない。
 
 
「お前、兄さんの部屋漁ったんだろう。こんなもん見つけてきてさ、機械は濡れちゃいけないんだぜ」
 
ライルには当時の状況がありありと想像できた。兄の部屋の中を駆け回った彼は、戸棚かどこかからこのメディアプレイヤを見つけ、そして恐らく腕を伸ばし。
 
「ま、言うまでもないか。―――感傷なんて、そこには無かった。そうだろ相棒?」
 
 
 
だってお前、自分の目の前にあるモン引いただけだもんな。オレンジの球体が嬉しそうにイエスを叫ぶ。ロックオン、ハロニ、オシエタ!
 
    
「やっぱりな」
「イス、ヒク!アレルヤ、スワル!」
「良く分かんねえけど―――だからアレルヤにこれを?」
 
そうだよと開閉する蓋の部分が耳のようだ。ライルはやっと再生を終えたメディアプレイヤの電源をぶつりと切った。推理ドラマを断ち切った時の乱暴加減で切った。何のことはない、思いだし、哀しくなるのはそいつの勝手だ。刹那達との埋め切れない距離を感じて唇を曲げる。
 
(俺は酷い弟ですか、)
 
湿度のない空気にまぎれてこぼした笑みを、やっぱりおんなはニヒルというのだろう。ライルは脳裏に兄の顔を描きながらそう思った。
 
 
 
 
 
 

 

 
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“I’ll kiss you  僕らは最高の兄弟だった”
  ―――アイルキスユー/石川智晶