くてわれ、君に与えん、愛人よ、

月のごと冷たき接吻と、

墓穴のふちにうごめく

蛇の愛撫とを。    (ボードレール詩集)




「……くちなわ、」

「口に縄、じゃないよ。蛇と書いてそう読むだけ。シズちゃんは変態だなあ」

「誰が何だって?」

「耳まで遠くなったの?」

「……変態なのはテメェだろ、敷かれた状況で詩の暗唱する奴があるか」

「反論だけは立派だねえっていたたたたタタ、髪、髪が」

「わざとだ」

「知ってるよ馬鹿じゃないの?」

「……ッ」

「ッタタタ、はは、嘘怒んないでよ、痛いから」

「痛いの好きなんだろ」

「痛いの好きな俺を好きなシズちゃんはかなりイタイ人だね、」

「殺す、」

「うーん、それは俺の役目かな。というか空気読んでよね。この詩素敵じゃない?」

「どこが」

「冷たき接吻ってまるで、」

「墓穴云々じゃねぇのか」

「……ああもう、雰囲気読めって言ってるだろ、」



伸ばした手は噛み付くようなそれを引き寄せる。
普通に望んだぐらいじゃ簡単に与えられないその熱は、
焦がれる俺を灼きつかせ、焦らせて削がせて滾らせて、



その先は知らず
 
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麗なものと猥雑なものを一緒に鍋にぶちこんで煮詰めたらこんな気色悪い極彩色が出来るのだろう、とぼんやりと俺は思った。視力は良いほうだが、流石に遥か遠い街のネオンはぼやけてよく分からない。フロントガラスごしならなおさら。赤や紫や、それからもっと汚い色が、混じり合って滲み濁る。綺麗なはずなのに汚らしい。思い出した人影に強く舌を打てばドライバがびくりと震えた。


酔いのまわった頭をガラスに押し当てる。
小さな振動が脳を直接揺さぶるような妄想。目を閉じても色彩は瞼から離れなかった。なんだこれ、と、どうしてこんな、と、それからもっと別のことを同時にいくつも考えて、霧散させる。もとより頭脳労働に向かない頭だ。誰かみたいに記憶力だって良くない。もう一度舌打ち。痙攣するドライバ。

「……混んでますので、……すみません」
「……別に」

予想より低く掠れた声が出て、まるで脅しだ、となんとなく。別にアンタに苛立ってるわけじゃねぇよ、と言おうとして面倒なのでやめた。むしろゆっくり家に帰りたい気分だ。一人は嫌いじゃないが独りを好むタチでもない。特定の人間を繰り返し回想するような酔い方じゃ、明日の目覚めは最高だろう。

いっそ吐いてしまおうか、などと思うくらいには。


脳内のアイツはどんどん美化されていって、何度殺しても生き返ってくる素敵なゾンビ、或いはお綺麗なツラを歪ませた弱者、従順と敗北、沈黙と悠然、そして赤の他人なんかになっていた。リセットリセットリセット。どんな出会い方をしたってオトモダチになれるパタンは見つからなかった。ヘボゲームめ。ああ何考えてんだ俺。


「……そろそろ、です」

目を閉じてすぐに眠れる人間は幸せだ。

「……最悪だ」
「はい?」


タクシーなんて慣れないモンに乗るから、か。

「なんでもねぇよ、」


今以外のモノになったアイツを――つまらない、と感じる自分は、もう。
 
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ゆらせた煙にむせる女に、雇い主はふふと微笑いかけた。我ながら非道だと思うが、珍しさに耐え切れなかったのだ。女は一瞬鋭い目つきで己の雇い主を見たが、すぐに目をそらせて仕事を再開した。男の扱いをよく分かっている。面白くなかったが男はそれを容認した。なんにせよ暇つぶしの戯れだ。変に絡まれても鬱陶しいだけである。

「遊んでないで、仕事したら?」
「遊んでないよ、仕事してる」

女の口元がぴくりと引き攣れたのを指摘すると、氷点下の視線を投げられた。男は仰々しく肩をすくめる。

「細かい男は嫌われるわよ、」
「そういうのに困ったことないな」
「顔につられる女もバカね」

馬鹿を釣る男も馬鹿。釣るって酷いな、雇ってるんだけど。……あたしの話じゃないわよ。

少しだけ短くなった煙草を灰皿に押しつける。男の手元できゅうと音が鳴って、煙草は失命した。豪勢な使い方に、だが女は無言で流しにかかる。所詮暇つぶしの戯れなのだから、と。

「楽しみな事象の前の時間って、どうしてこう流れるのが遅いんだろうね。神様が意地悪してるとしか思えない」
「気持ち悪いわよ、それ」
「神様?」
「いじわる、」
「君も大概だけどね」
「……は、」

八つ当たりしないでよ、と叫ぶほど女も馬鹿ではなかったが。流石に。

「あと一本吸ったら行こうかな。頃合だろう」
「アポは――」
「喧嘩人形にお伺いがいるかい?」
「……押しかけるから嫌われるんじゃないの」
「厭よ厭よも、ね」
「最低、」
「ははは」

褒め言葉?――好きにして。そう怒らないでよ、波江。

「……」

この、男は。本当に。

「――ああ、やっぱり君は馬鹿じゃないみたい」


にこやかに笑って男は席を立つ。前座に揶揄われた女は無表情を創るのも忘れて、漆黒を纏う雇い主を見送った。
 
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ちょんけちょん。……はァ?けちょんけちょんにけなす、って最近言わないよね。なんだ突然。言わないかな。何、新羅は言うの?さあ、言わないかも。けちょんけちょんにやりこめる、とか。テメェの得意分野だな。シズちゃんヤラレ専だよね。あァ!?あーこら喧嘩しない。狭いから。じゃあお前が降りろ。え、なに、自殺?なんで目ぇキラキラさせてんの、臨也?見届けてあげるよ、でも新羅じゃいい値つかないな。ちょっと人の臓器売り払わないで、てか止めてよ。お前の親父ならしそうだな。静雄まで、君ら酷いよ。知ってたけど。何の話だったっけ。……けちょんけと、ん。ああはいはい、何シズちゃん、噛んだ?今噛んだよね?うっせえなあ死ね!死ね!二回言った!だから暴れないでってば!ここがどこだか分かってる?流石にそこまで耄碌してないよねシズちゃん?なんで俺!あ、あと一駅だ。……今周囲から露骨なため息が。そういえば、なんで俺達のまわりこんなに空いてんだ?……ね。通勤ラッシュなのに。臨也、分かっててスルーしない。あはは――ご苦労様。
 
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んなとこにアト付けるなよ馬鹿じゃないのどんな子供だよ、

独占欲だけは人一倍強い奴と俺との間に横たわってる海溝みたいに深くてエグい亀裂は時に関係と呼ばれて、

その関係は決して愛欲とか恋慕とかそういう甘ったるいもので出来てるんじゃなくて、

嗜虐心と残酷さと制圧欲望、もっと原始的な欲情なんかで形作っているものだから、

あとに残る乾いた疲労や苛立ちや焦燥に病み付きになる俺達のような人間なら、

ドラッグ並みにはまりこんでズルズル傷を負うことはもはや明確で、

成長の可能性をハナから捨てた逢瀬というのは心地良いどころか最悪だけれど、

その最悪加減が破滅への祝福と考えてみればそれもまた一興というもので、

つまりヤるだけヤッてあとはお好きに殺し合いなんていう筋書きはむしろ、

理性を粉々に崩せる最高の狂劇と呼べるのだろうから、

クソッタレな日常に残るのは、小さく毒づく鬱血の跡だけなのだ。