薄墨を溶いたような視界を、ふと黒い点が横切った。薄暗い。明かりはつけない。障子の外に、日の出の気配を待つ。
点と思ったのは虫だった。恐らくは小蝿。そうあたりをつけて、緩慢な動作で首を回す。酷く蒸し暑い夏の夜明けだ。髪も肌も、そして空気さえも湿気をはらんで重くなっている。じとり。じとり。溜息さえも蒸されて重く、はだけた夏布団に厭らしく染みていった。

嗚呼、疎ましい。

もとより湿気の多い国だ。日によってそれは八割を超え、場所によっては人肌を越す温度を叩き出す。あの横柄な若者にくにを開かれてから、多くのくにと出合ったが、高温多湿を地でいくような輩にはついぞ出会わなかった。暑い。蒸す。湿っている。この時期、遠く西洋の友人達を招きづらいのはこのためだ。恐らくは根をあげる。口にせずとも厭になる。特にこんな、古ぼけた民家の夜には耐えられまい。恥、というのとは少し違ったが、基本的な構造の違いを形にされたようでおかしかった。肌の色ひとつ、目の色ひとつとってもそれは大きな差異。酷く透明な彼らの彩りは、こんな蒸し暑い我が夜中には似合うまい。

それとも、情事の色を描かれますか。

割り開いた浴衣の裾から、そっと手を入れて肌を擦る。軽く四桁を越す齢、老体には何の感慨も在りはしないが、それでも太股を撫で上げると笑みが零れた。嗚呼可笑しい。汗が出る。彼等の夜はこれほどに苦しいのだろうか。慰めにもならない指先は、ただ不快だけを下肢に刻んでぱたり、布団に落ちた。
仰向けのまま息をつく。
ふわりふわりと視界を漂っていた小蝿が、吸い寄せられるように台所へと入っていくのが見えた。縁側の障子を閉めたかわりに、台所への廊下を開け放しているのだ。小蝿を寄せるもの。台所。なまもの。匂い。そこで嗚呼と思い至る。先日上司に貰い受けた桃があった。だいぶ痛んだ其れを、たらいに入れたまま床に置いていた。明日の朝にでも捨てるつもりだった。この湿度だ、寝る前よりずっと腐食は進んでいるだろう。腐りかけの桃と、小蝿。ますます彼等には見せられない甘い齟齬だ。綻びだ。単なる体裁に他ならない、けれどもしかすれば、私はあの透明な瞳を恐れているのかもしれない。美しい海の色、射抜かれる新緑の色、煌くばかりの空の色。疎ましいばかりのこの熱帯夜に腐りながら。

桃を堪能したのか、いつの間にか戻ってきた小蝿は、立てた膝の頭にすっと止まった。然様ですか。私の身体も、甘い匂いがいたしますか。どうか駄目になる前にお食べになって。焦れる指先が引っ掻いた障子が、朝日を透かし始める。死にゆく桃の匂いに喉が鳴った。