アパートのエントランスに入る前に、店に寄って買い物をした。二人分のホットドッグと、コーヒー。白い紙袋にケチャップとマスタードが気持ち悪い紋様を描いている。赤と黄色ってのは、こりゃ攻撃色だな。食欲促進というのが通説だろうが、それはつまり脳に働きかけて、刺激を脳みそにブっ刺してるわけだから。コーヒーはブラスチックのカップにもらったが、思い直して缶のものに変えてもらった。ふたつも持ちきれない。
「気がはやいだろう」
釣銭を数えながら店の親父が笑う。レジの隅、卓上タイプの小さなモミの木が嬉しげに点滅を繰り返していた。娘が置いて行ったのだという。その横の電子カレンダーは、まだ11月を示している。
「あとひと月だな」
「どこの店ももう置いてやがる。商業主義ってのは気に食わんねえ」
「あんたの、このかけ過ぎたマスタードはどうなんだよ。定価上がるだろコレのせいでよ」
「ま、商業主義だな」
油にまみれた掌からコインをいくつか受取って、そのままぞんざいにポケットに捻じ込んだ。缶にしたってコーヒーは持てたもんじゃない。2本ともパーカーのポケットに入れたらじんわりと腹が熱くなった。メリークリスマス。嘲笑うように親父が手をふる。
「はえーよ」
あんたより気のはやい人間は、たぶんまたベランダにいるんだろうが。


エレベーターが丁度のタイミングで来たものの、中には母親と小さな娘がふたりきりで、……女は少し嬉しそうな顔をしたが子供のほうが明らかに怖がったので無言でクローズを押した。まあな。ガキは怖いよな。我ながら目つきがいいとは思っていないので別段新鮮な反応でもない。大人の女は、大体がこのガタイというか、骨格、体つき、そういうものに目を輝かせるのだ。

3階なんて階段ですぐの距離だった。インターホンは省略。鍵をあける行為は向こうが省略していた。用心ねぇな。兄をひとりで置いていくとき何本チェーン掛けていくか分かってんのか。無自覚か。俺のお優しいオニイサマが伺った時は、はやく帰れと言わんばかりに、来客用にいつも出してあるスリッパを目の前で片付けるらしい。馬鹿だ。
「おい」
エサの時間ですよ。これも省略。いい加減ケチャップの染みてきた紙袋をガサガサ揺らしながら、冷え切ったリビングを横断してベランダに出る。茶色い巻毛が11月の空気に揺れて、緑の眼がびっくりしたように俺を見た。
「ブラックペッパーは」
「ねぇよ」
訂正、俺の腕の中の紙袋を見たらしい。右手でホットドックを受け取りながら、左手は器用に煙草を柵に押し付ける。ジュッ、といって絶命。あまりに短命。
「焦がしたら怒られんじゃねえの」
「どうでもいいんだよ、こんなモン」
「こんなモン?」
「あいつは興味ねえの、」
おれに、なんて。若干「に」が震えていた。横から見ると睫毛の先が透き通っている。エサにかぶりついた口の端からケチャップが垂れて、黒いニットのセーターを汚した。
「あんたら、馬鹿だな」
「おまえに、……おまえらに言われたくないね」
「ベランダ焦がしたの誰だって言われたら俺は正直に言うぜ」
「言えばいいだろ。どうせ怒んないよあいつ」
「怒るだろ」
「おまえの兄くんは、」
「……怒るな」
「うちのはそんなに狭量じゃない」
ぺろりとエサをたいらげた唇が少し吊り上っている。どんなときも実兄を褒めてヒトのオニイサマを貶すのを忘れないのだ、この馬鹿は。はやくわかれろー、と低く呟いてまた笑う。わかれたってあんたらの喧嘩の結果には何も影響ないと思うけれど。俺は正直、結構な確率で、もはや諦念を選ぼうとしている。誰だって誰かひとりのものであるわけが無いのに。馬鹿だなあ。

「ま、なんでもいいけどよ。うちのオニイサマが心配して夜通し泣いてっから、はやくどうにかしろ」
「なんでお前の兄くんのためにどうにかしなきゃなんないの」
「あんたらの為だろ」
「嘘くせえ。ハレルヤの一挙一動は、全部兄くんに起因している、違う?」
「さあねえ」
「とにかく俺と、……ニールは。今。冷戦中だから。絶縁な感じで紛争中だから」
「へえ、」
「だから何が介入したって無理だから。喧嘩してるから」
「あっそ」
馬鹿は少々カチンときたようで、俺の方を一瞬睨みつけた。何が、喧嘩してるから、だ。子供か。ガキか。ガキだったら俺を怖がるから、違うのか。まあどうでもいいけれど。喧嘩の発端を俺はよく知らないが、オニイサマが怒り心頭のニールから聞き出したところによれば、どうも原因はそのオニイサマ本人らしいとのことだった。好きなオモチャを取られてウザイ、とかどうせそんなもんだろ馬鹿らしい。ちょっと前までニールを鬱陶しいと思ってた俺に言えることでもない?いや鬱陶しかったのは最初からこいつだ、この馬鹿だ。

だってアレルヤがいないとき、俺が一番会っていたのは。

「……寒い」
「あたりまえだろ、今何月だと思ってんだよ」
「ハレルヤはわりと小言が多い」
「あんたが駄目すぎっからじゃねえの」
「今11月だよ、でも世界はもうクリスマスだろ」
「ここの店な、」
「ツリーあった。娘さんが美人だった」
「また引っかけたのか」
「……ハレルヤは」
「あんたが、ダメすぎる、だけ」
「じゃあさ、クリスマス。それでいいだろ」
「何が」
「クリスマスまでに、ニールがおまえの兄くんに飽きなくて、お前の兄くんがニールに……」
「飽きなかったら?」
「ニールは人に飽きられることなんざねぇよどんだけ小物なんだよ」
「鬱陶しいなあんた」
「……兄くんが、ニールから、手を引かなかったら」
「ら?」
「俺は、……スリッパを片づけるのをやめる」
それは今俺が履いてる、この妙にフワフワした黒い毛のやつか。とは聞かなかったが、なんとなく面白くて(いや面白くなくて?)そいつで馬鹿の足を蹴ってやった。いてぇ、て痛いわけないだろ。俺のがよっぽどイタイ、こんな馬鹿に律儀にエサ運んできて。餌付けして。なあ?


エントランスからさっきの親子が出てくるのが見えた。娘の方がクルクル回って、何事か母親に問うている。白いボンボンのついたニットキャップが激しく揺れて、そいつはまた踊りだした。切れ切れに聞こえる下手くそな歌が、気の早いクリスマスソングであることに多分隣の馬鹿も気づいている。世界はもうクリスマスで、気が早くて、商業主義だ。
「あ!」
おかーさん、ほら、と子供が笑う。白くて軽いものがひらひらと降ってきたらしい。ふたつ、みっつとそれは大人しく子供に降り注いだ。おかーさんメリークリスマスだよ、雪だよ。空のほうも気が早いらしい、あきれかえって隣を見れば、細切れになったホットドッグの紙袋を手のひらから吹き飛ばしている馬鹿がいた。ひどくつまらなそうな顔をして、ライルはもう一枚、気の早い雪を吹いた。