るで夢みたいな話だけれど胎内は海水なのよと言って矢霧波江は妖艶にさえ取れる笑みを浮かべた。母がしばしば海にたとえられるのはそれ故なのよ臨也。たった3字の短い言葉は端的に俺を表している、矢霧波江に相対するためにテーブルに頬杖をついている俺は盛大に溜息をついた。…だから何だっていうの。抽象に対する抽象があまりに無意味なことなど百も承知だった。そして人並みか或いはそれ以上に言葉をもつ矢霧波江は、…雨がふるといい夜だと思うのは何も蛙だけではなくて、と万の破壊力を持つ女の声で以て俺を見る。雨というのはつまり水。水は海。海は母。で、母はアンタ?私は胎内回帰の、……子供騙しだねぇ馬鹿みたいと俺は笑った。臨也は意地が悪くて頭が良くて人として終わってる、だから好きにはならないわ、などと、窓の外でけぶる雨に紛れて消えるほど軽い独白は確実に相手を間違えている。……残念、じゃあアンタが好きな男に言えばいいじゃない、たとえそれが同じ海から派生した相手でも。矢霧波江は少しだけ頭を傾げて同じように苦く笑った。私、甘えたいのかしら。……酔ってるね。手を伸ばして頬に触れ、矢霧波江が見えない記憶の底を浚ってまで還ろうとしている海水を爪の先でそっと拭う。水は海。海は母。母はアンタだ、矢霧波江。弱々しい蛍光灯の光を受けて俺の爪がぼんやりと白く。……やっぱり臨也は、人として最低だわ。左右均等に釣り上がった唇は美しい笑みを描いて。……ココの出来が違うんだよ。濡れたその爪の先で、柔くほつれた黒髪を撫でる。いじましい馬鹿馬鹿しさに吐き気がした。


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境無しですかみっともないと鼻で哂われて不覚にも胸がキュンとした。

「コントロール出来ないんですかそういうのって、」

涼しい顔をしてそれでもブレザーを脱ぎ捨てるから困る。細い身体の基線。絵を描く人間はそれを限りなく正確に紙に写す。小さい頃に紙を神と書いて、だから絵描きとはなんて崇高な職業なのだと昂ぶったことがあった。神にヒトを刻む者。我ながら変態くさい。

「まだ日が高いですね」

保健室のベッドは当たり前のように白く輝いていた。黄色いカーテンが柔らかく日差しを透かしてシーツに溜めていく。彼はそこに軽い動作で横たわり、なんでもないことのように両腕を僕に伸ばした。

「まあ今更ですけど。さあ始めましょうか」

しゅるりとネクタイを解かれ、白衣が音もなく床に舞い落ちる。ええとじゃあ保健体育の課外を始めますなんてとてもじゃないが言えなかった。窓の外から時々聞こえる歓声と、ホイッスルの響きに笑いながら唇を寄せてくる。捕まる寸前、ぺろりと自身の唇を舐めて、そして思い出したように彼はささやく。

「……せんせいは、悪い大人ですね」

実はそこの棚の中にあるメスで患者や患者でないヒトを切って刻んでみたいんだ神に、僕は絵描きじゃないけど保健医で、保健医である前に闇医者だから。もしこんなことを言えば彼はどんな顔をするだろう。目をとじようと一瞬盗み見た時計はまだ十時と少しを指していて、彼はそれに気づいたのか至近距離のままにこりと笑った。

「これが終わったらそこの棚にあるものを一式貰いたいんですが」


教師新羅と生徒臨也
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「ムスカがいる!」
「……え?」
「ムスカがいる!」
「あのー」
「わあムスカがいる!」
「俺?」
「すごーい本物だあ」
「棒読みッスね」
「ムスカだあすごーい」
「ねえせめて目を合わせてくれません?」
「ムスカだムスカだ」
「……やっぱ俺?」
「ムスカだーわーい」
「ええと……ちょい待て。うんちょっと待」
「ムースーカー」
「えっとな。おおムスカな。ええと、」
「ムスカー」
「……目、がー!目がァ!」
「……」
「……」
「……」
「……あれ?ノーリアクション?」
「戌井には失望したよ」
「なんでだよ!」
「まさかそっちを言うとはね。しかも若干の恥じらい込みとかね。最悪だね」
「そんなことねぇよ」
「なくねぇよ」
「ひどい」
「戌井のセンスの……いや」
「ちょっと!比べるのも面倒くさいとかやめろよ!」
「いやもう喋るのも面倒」
「おまえソレ唯一の武器を失うことになるぞ」
「戌井なんかとうに失ってんじゃん」
「何を」
「尊厳」
「俺ヒト以下!?」
「何だと思ってたの?」
「せいぜい犬とか。文学的に」
「文学的にいうと世界の果てをさすらう敗者でしょ」
「歯医者?」
「え……いや」
「ちょっと!」


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まぐるしい変化のない日常は緩やかな死だと言うのでそんなわけあるかと突っぱねてみたが心のどこかでそれもそうかと思っている自分がいて軽く死にたくなる、同意なんて厭だ厭だ絶対にしたくないんだと泣き喚いてみせるくらい自分が子供であればよかった。もう出来ないんだそんなこと、だってもう好き勝手して知らぬ顔で生きていける程しがらみは少なくない、ほらみろ俺は昔からこうやって変化しているつまり緩やかに死んでなんていねぇだろっつって。惰性で生きてるなんてそんなことありえない、前にも聞いたがT路地に立ってそんで右に曲がるという選択は自由意志じゃねえ選ばされてるんだって確か言ったのはお前だった。なあ。同意も同調も返事も反応も何一つやりたくないんだ俺は。同じ空気なんか吸いたくないし同じ地面になんか立ちたくないし同じ言葉なんか喋りたくない。それでいてお前が言ったクソつまらねぇオハナシはこうやって脳に刻まれてるわけだ哂えてくるよなぁ。笑い事じゃねぇよ。お前の唇の端が、こう、物理的に、2センチずつ上につりあがるのを見てると凄く、……。


てめぇブっ殺してやる、厭だよシズちゃんが死ねば、うるせえ死ね。こんなのをあと何度繰り返す気だよ。


テーブルの木目を数えながら静かに口を閉じて、喋り終えたことを示す。そのままゆっくりと顔を上げれば、いつもの薄ら笑いの消えた白いかんばせが一切の表情を乗せないで俺を見ていた。既視感。


「……だからそれが緩やかな死なんだよ」

手からグラスが転がり落ちる。脳髄に食い込む睡魔に連れ去られる寸前、昨日とまったく同じ角度から見えた臨也は確かにさよならと呟いた。

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字が文字として目に入るまでに少しだけ時間がかかった。所謂ゲシュタルト崩壊、そんなに難しいものでもないか。突っ伏していた身体は硬く、首と肩がコキと鳴った。最後に時計を見てから1時間と半分が過ぎている。

「寒……」

既に部屋の中はうっすらと闇に喰われていた。ぶ厚い遮光カーテンと誰もいないカウチは所在なさげに冷え切って、チカチカと点滅するディスプレイだけが熱を持っている。機械より低い体温ってどうなんだとは思うけれど、間違いなく今の指先は無機物に負けていた。新着メールが1件。右手でなぞると凍えた皮膚がじわりと痺れた。不健康に発光する画面は、寝起きにしても無表情な俺の顔を映している。なんだかね。


まともな色をした目、というのを俺は見たことがない。俺が相対する人間というのは、どろりとバターを溶かし込んだような、ワインでぬるりと煮詰めたような、そういう多少は澱んだ目をしているので、これは哂えるほどに自明の理だった。だった、なんて言って断定できるくらい人付き合いがいいわけでは無いけれど。そこらの人よりは知り合いが多いような気はしている。『顔見知り』という言葉を本当に素直にキレイに狭義で取れば自然とそうなる。そうなった。


それにしたって俺のところに来る人間なんていうのは、大体どいつもこいつもネジやヒューズが飛んでるヒトデナシばっかりだ。ヒトデナシってカタカナで書くと何やらモンスターのようで笑えた。モンスターか。化物ばかりを相手にとって。全然悪い話じゃなかった、だって俺はヒトデナシと相対してずっと低温で笑っている人でなしなのだから。人で無いなら何だというのか。


足音を立てずに窓に寄って外を見る。フローリングの床から冷気が這い上がり背骨に絡みついた。誰もいない部屋と、誰もがいる窓の外。俺はこうやって地上を見下ろし、いつのまにか微睡んで、時々ゲシュタルト崩壊を起こす。空調を入れるかどうかで2、3秒迷って、結局唸り続けていたパソコンを切った。もっと寒くなればいい。一瞬ぶるりと震えて沈黙した本体が、死に際に足掻いているようで少しおかしかった。