心臓が遠い。
覚醒は生温かく、目の奥でぐずぐずと溶けた。躯を動かそうという意思がほどける。やわらかくほつれて形にならない思考。いつだって何かを考えていて、しかしそれが意味を成さないというのは。とても。吐き出した息さえ、声にならずに深淵に。
静かな夜だ。おそろしく静かな夜だった。空調のうなりが遠い。低く、濁々として途切れないそれに混じって、軽い雨の音がしている。起き出して帰ってあげてもよかったのに、というのは恐らく後付けの衝動だった。だってもう帰る気なんかさらさらない。足の先まで、全身が静かな夜に沈んでいた。
特別やわらかなソファでもないのに、面白いほど力の抜けている午前二時。酔って、投げて、ほんの少し、煙に巻いて。そこまでを覚えている。門田。門田、京平。思考は数え切れぬほどの断片で、水滴で、酸素だった。アルコールのまわりきった瞼を2、3度動かす。うすぼんやりとした、それでもしっかりと暗い空虚。空調が効いて、喉が少しだけ痛いようなそんな夜に。かすかな水の音、雨の気配が、焦点を僅かにずらしながら鼓膜に闇を描く。
(心臓が、遠い)
……ロジカルな駒が欲しい、などと。言うつもりも、気取らせるつもりも全くなかったそれを。小さな子供の頑是無い祈りにも似たその程度の声を拾われたことに、だが不思議と腹は立たなかった。結局のところ1人で立つのがつまらないだけなのだ。真正面、あらゆる力をねじ伏せる金色の前に、悠々と立つのが厭なだけ。たとえるなら人形劇だった。紐繰りは1人で十分で、もちろん独りだからこその暗い愉悦があるのは確かな事実で。――だからこそ、ふっと舞台裏を見たときに、そこがただの空席では厭なのだ(大体、客席にぽつんといるのが奴だけだなんて喜劇もいいところ)
薄い壁を隔てた向こう、投げ出した携帯を拾い、ブランケットをかけていくようなお人よしが息を殺して眠っている。そう思うと可笑しくなった。門田。門田、京平。そのロジカルな心臓は、きっと歯車仕掛けの精緻な音を立てて。
(遠いものだ)
肌寒い。あらゆる音が眠りにつく午前二時。やわらかな暗闇に骨を浸して、じっと、ただじっと彼の心臓の音に耳を澄ます。ほつれた思考の糸は、彼を上手に絡め取るだろうか。微笑にすらなり損ねた吐息が、しんとした部屋にじんわりと染みていった。
夜は、静まりかえっている。