瞼の奥に引き攣れたような痛みがあった。目覚めるときはいつもそうだ。眠りの淵はとても不安定で、たとえるならそれは水の入ったグラスをゆっくりと左右に揺らしている感覚。瞬きをニ、三度する。かさついた睫毛が視界に紛れ込む。
「……なに、」
みてたの。息をしなれていない気管が張り付いて語尾が上がらず、質問とも独り言ともつかない曖昧な独白になって宙に溶けた。呼吸の仕方を忘れている。頭の中で言葉が渦巻いて、形を捉える前に彼が振り向いた。
「別に」
「……帰れば良いのに」
「鍵。おまえが、」
「ああ……そうだっけ」
へらりと笑うと睨まれた。彼には俺を睨む権利があるらしい。彼の鍵、を、俺はどうしたのだろう。隠したか壊したか、それともまさか飲み込んだ?こんなに喉が痛いのは金属片を飲んだから?とんでもない執着心だと思っておかしくなった。俺から離れたいならこの喉を掻き切ってよ。
「起こせば良かったのに。それか、家の中、探して……」
「こんなごちゃついた部屋、誰がひっくり返せるか。持ってんだろ。出せ」
「出せって言われても……」
「おい、」
「違う、覚えてないんだ」
顔の前で手を振って困った表情なんかを作ってみる。鍵。彼の鍵。眠る前。馬鹿げたことに、恐らく彼と話していた俺は途中で寝てしまって、それを彼は見ていたらしい。彼の鍵をどうにかしたまま。何も浮かんでこないので、そのままソファにもたれて仰け反った。背もたれに頭を乗せ、首をがくんと後ろにそらす。逆さまになった窓の向こう、重力に逆らって桜が散っている。あんなに小さくて薄い花なのに、何故ああも怪談話が多いのだろう。死体から吸える養分なんてたかが知れている。恨みつらみの栄養分が数値化出来るのなら、俺だって彼の死体を枕に寝てやるのに。嘘だけど。
「酔ってました、身に覚えがありません」
「居眠りこく前のおまえは、飲んでねぇし、大体自分の身以外のことを覚えるのが仕事だろ」
「じゃあ空気にアルコール混じってたんだよ多分」
「上手く息吸えてねぇくせに?」
「……」
首をもどして彼を見やる。血の気がさっと下がってきて気持ち悪くなった。そもそも彼、彼って、……ああ名前も飲み込んだかな。俺の臓器は大丈夫だろうか。鍵と名前とアルコール。この喉を裂いて開いてよ。見てごらんよ。
「気持ち悪い」
「何が」
「シズちゃんが。あ」
「……?」
「そうかシズちゃんだ。そうだね」
「おまえ、……やっとイカれたか?」
「やっと?」
「いや前からか」
「ほんとに君の鍵は、知らないよ」
「ありえねえだろ」
「だって飲んで無いよ」
「……どうする?」
応接ソファというのは良くできたもので、普通に座っている限りでは適度な距離感を保てるのに、いざ相手が立ち上がると途端に距離を詰められたように思ってしまうのだ。彼はいつもと違う、少し斜めに構えたような顔をして身を乗り出してきた。
「もし飲み込んでたらどうすんの、おまえ」
咄嗟に目を伏せたのは多分間違いではなかった。ぶつりと唇が切れる音がして、死体を玉座に立ちそびえる花の、その赤い色が零れおちる。舐めとって剥離する赤が濡れる。そのまま鎖骨に指をかけて、それで開けばいい。それだけで何もかもが分かる。何もかもが伝わる。形にならない言葉も、浮ついて燃え上がる空気もいらない。
繋がらないまま、春だけが赤い。
「……どうしようか」
きっと彼は俺の向こうの桜を見ていたのだろう。ぽたりと血を滴らせながら俺がほほ笑むと厭そうに笑ったので、そう言ってやった。もっと気の利いた返事はねぇのかよと吐き捨てる。どうしてほしいか言ってごらんと俺も呟く。
「――この喉を、裂け、とか」
理解し得ないことをお互いに理解し合って、そのことを祝うようにもう一度血色の舌を出した。俺、シズちゃんの考えてることなんて全然分からない。聞こえているのかいないのか、彼はぽつりと、俺も、と言って噛みついてきた。頭の中にコードを刺してさ、思考がその中を光みたいに走り抜ければ良いのにね。そうすればもっと俺たちはいがみ合えるよ。人間であることへのジレンマなんて言うと崇高すぎるから、せいぜい俺とシズちゃんだけの気持ち悪さにしておこう。
「きっと鍵は桜の下だよ」
それか君の財布の中。顔をあげた彼はにやりと笑って俺を塞いだ。