ほんの少し目を伏せて、携帯を耳元から遠ざけた。親指の爪で電源ボタンの上をかり、とひっかく。爪が伸びてきたなと思う。かり。艶やかなゼリーでコーティングされた様なそこにはもちろん傷ひとつつかずに、秒数を刻み続ける液晶だけがクリアのままだ。


じゃあねとさよならと死んでくれを肺の中で混ぜたままにして、俺は形態を握った手を降ろしてしまった。スライド式の最新機種、服装と矜持に合わせて選んだピアノブラック。常人が見たら眉をしかめるような数の個人情報が、本物のスパイが見たら鼻で笑うくらいの数のプロテクトの下で蠢いている。保持保有はすべて活用のための手段であって目的ではない。俺の仕事はそういうもので、だから電波とバッテリーと、それからほんの少しの悪戯心は、いつだって仕事のためにフル活用されていた。一方的な通話も見透かしたようなメールもお手の物だ。温度のないコミュニケーションは腐りかけの恋愛に似ている。

携帯の向こうで喧嘩人形が笑っていた。

いい加減俺とあれの会話は簡略化、形骸化、習慣化、なんでもいい、とにかく鮮度を落とし始めていて(たとえば空気にさらしたままの寿司)、どこかでやりとりしたような暴言と挑発に、俺の耳はすっかりなじんでしまっていた。流石に毎日とは言わないけれど、飽きるほど繰り返した「用のない電話」はお互いの中にプログラムとして組み込まれてしまっている。まるで声を乗せる電波の形が見えるかのようだ。なんて素敵なロマンチスト!ぶち切るためのボタンに爪をかけたまま、ずっと押せずにいるだけの!

喧嘩人形はまだ笑っている。

どうして電話に出てくれないの、という吐きそうな問いは初めから存在しなかった。出る方が異常なのだ。異常が何年も続いているだけなのだ。頭のどこかでは分かっていて、そいつに無理やり蓋をしているだけなのだ。蓋の下から漏れだす腐臭に、俺は自制の限界を知る。何もかもが腐っている。何もかもが終わっていく。

喧嘩人形の息が聞こえる。

挑発されるだけと分かっていていちいち電話に出るあれは、本当に救いようのない愚か者だ。通話ボタンを潰す勢いで押して、あれは電波に声をのせた。会話を受容した。俺を選んだのだ。そしてそのまま、俺のピアノブラックに電波をつないだまま、――傍に居る誰かに応えている。


俺との繋がりがじんわりと腐敗していく、その速度に比例して、喧嘩人形を取り囲む人間が増えていく。彼らは声高に圏外を叫び、俺は電源ボタンをなぞり続けるのだ。そういえばこの爪であれの背中をひっかきまわしたのは、いつが最後だっただろう?爪と皮膚の隙間に入り込み、同化することなく消えていった細胞を想って、俺は静かに息を止めた。塞がれた肺が小さく震えて、端からゆっくりと腐っていく。携帯からはまだあれの息が聞こえている。俺のいないところで、誰かに応えるその音が、鼓膜から俺を犯す。侵す。