良い酒は、良いものを柔らかくする。
何のことだと問おうとして顔をあげた途端、目に入ったのがにやついた唇だったせいで、ティエリアはそのまま目線をグラスに戻した。繊細を絵に描いたようなフルートグラス。金色に泡立つシャンパンと、毒々しいまでにカラフルな小粒のチョコレート。お膳立てと言い訳ばかりが上手な狙撃手が、まだにやにやしながらグラスを手に取った。良いもののひとつに、俺の同僚が含まれてるんだぜ?それは良かったですね、てっきり女のことかと思いました。それはまた別の話。肩をすくめる仕草に微笑もうとして、間違って睨みつけてしまった。感情の出力はいつだって難しい。

乾杯をしようと男が言うので、ティエリアも儀礼的にグラスを持ち上げた。乾杯はお祈りと違って、どこの誰にしてもいいんだぜ、などとまた性格を疑われそうなことを言う。刹那がいたら彼の愛機に乾杯しただろう。同時に同じことを考えたのか、たとえばエクシアに、と男は笑った。蒼白く輝く刹那の機体。誰にも動かせない彼のもうひとつの身体。ティエリアは急いでグラスをかざして、乾杯をせかした。称えるものをあまり持たない彼には、乾杯の対象が思い付かない。男は少し驚いた顔で思案していたが、すぐに首をこてりと傾けた。よくやる仕草だ。シャンパンの水面に小さなさざ波が立つ。

じゃあ乾杯しよう、……美しいものに。

漠然としすぎていて、ティエリアにはそれが乾杯の対象として優れているのかいないのか、判断がつかない。美しいものに。美しいものすべてに。甘ったるい茶色の髪と、底の深い緑色の目をしたひとごろしが、魅力的すぎる角度でもう一度笑う。ティエリアの顔に、でもいいんだぜ?トリガーを引く時のような強さでグラスをぶち当てながら、ティエリアもにっこり笑った。今度言ったらぶちます。男から笑みが消える前に、ティエリアは中身を飲みほした。チョコレートはほどよい苦さで、よく冷えていた。つるつるの表面に歯を立てて、半分だけ齧る。男はそれを面白そうに見ている。ものを食ってるお前って興味深い。僕だって食事くらいしますよ。どろどろのオートミールとか、ポークビーンズとか、食ったことねぇだろ。流動食はあまり好まないので。それを知ってどうなるわけでもないだろうに、男は何度も頷いている。今度店に連れてってやるよ、カルチャーショックは大事だからな。頷きながら、流れるような動作で腕時計を確認する。ダイヤモンドカットが施されたフェイスの下に針はなく、ただ真っ赤な液体がぐるぐる渦巻いているだけだった。僕のを使って下さい。ティエリアは自分の腕時計を外しながら、顔をしかめて口の中のものを吐きだした。予想した水音はなく、カラン、とひとつ、噛み砕かれたボタンが飛び出しただけだった。プラスチックのボタン。下品なことをしてしまった。シャンパングラスは柄の部分からぐねぐねと曲がり、気泡が上から下へと逆流している。店員に取り変えてもらわなければ。それにしても腕時計がなかなかはずれず、ふと手元をみれば、ティエリアの手首に巻きついているのは太いケーブルの束だった。それヴァーチェのやつ?男が苦笑いで囁く。いえ、これは多分、僕の培養槽に繋がれていたもの。へそのおってことか。それをこの男に見られている、……言い知れない気恥ずかしさに肩を竦めた途端、皿の上のボタンが一斉に立ち上がって、テーブルから次々に飛びおり始めた。床に当たったものから砕け散って、足元に砂浜を作っていく。砂浜で刹那の髪切ってやったこともあったっけ。足元の砂が白く燃えあがり、天井のネオンが彗星になって少しずつ落ちてくる。星空の下で男は腕時計を諦め、懐かしそうに頬杖をついた。空っぽになった皿と曲がりくねったフルートグラスを端に寄せ、ティエリアは身を乗り出した。そうしてそのままキスをした。抱きしめようとしたら腕が透けていたので、唇だけを合わせていた。波の音に混じって銃声が聞こえてくる。ぱっと顔を離した時、男はライル・ディランディの顔をして瞬きをしていた。あんたのせいでまた兄貴は行ってしまったよ。








『Each atom sings to me "Set me free Form chains of the physical." O free me,O free me.』―――♪The Garden of everything