夢の中で、静雄はバスに乗って高速道路を走っていた。後ろから二列目の、窓際の席だった。少しききすぎた空調のせいで鼻が冷たい。思わず顔をしかめた瞬間に、いつも視界を薄青く染めるレンズがないことに気付く。ぼんやりしたまま顔を撫でると、頬骨と下まぶたに冷えた指先がそっとめりこんだ。夢か。静雄はほとんど驚くことなく思った。寝る直前の記憶より身体が小さいし、髪も短い。高校生くらいの自分に戻っているらしい。今日は珍しく、上司とを酒を飲んだから、慣れない刺激が妙な夢の形になって現れたに違いない。

「本当に?」

前の座席からひょいと顔をのぞかせた男に、静雄は深くため息をついた。いつもなら瞬間的な殺意が、まるで風船が破裂するような勢いで湧き上がるのに。夢の中の身体は不思議と重く、ぬるま湯につかっている錯覚をおぼえた。

「なんで夢ン中まで出てくるんだよ。失せろ」
「これが夢じゃなかったらどうするのさ」
「テメェ、高校の時からそんな暑苦しいコート着てたのかよ」

背もたれに腕をかけ、ん?と首をかしげた男が、自身の服装に目をやって笑う。これがシズちゃんが俺に持つイメージか。何を訳のわからないことを、と思ったら、すぐに視線が戻された。上下する目玉に辟易する。爪先から頭のてっぺんまで値踏みされる不愉快さに耐えるため、静雄は目を閉じた。夢だ。夢だ夢だ。そもそも耐えるなんて高尚な行為、現実の自分には出来るはずがないのだ。賠償の為の給料天引きはとどまるところを知らないし、この男を見たら殺せという、もはや本能的なシグナルにはどうやったって逆らえない。

「まあ、これが夢っていうなら夢でいいけど。陰気な夢だね」
「夢ユメうっせえよ、降りろ」
「起きた時にさあ、もとの身体に戻れるって保証あるの?現実のシズちゃんはもう死んでたらどうする?」
「あァん?」 

いぶかしんで目を開けたのが間違いだった。さきほどまで目の前にいた男が、いつの間にか隣の席で優雅に足を組んでいる。音も気配も、もちろん座席の揺れだってなかった。幽霊やヒトダマや或いはもっと神秘的な何か、得体のしれない電気的な何か。持てる知識のすべてを使って静雄は男の正体を考えたが、そもそも夢なのだから何であったって構わない。男は男でしかない。固有名詞は、呼ばない。

「よくある話だけどね。寝る前の自分と起きた時の自分の一貫性は?その身体の共通項は?自分が保持される条件は?そんなこと考えるのは人間くらいで、だからこそ俺は人間じゃない君に聞きたい」
「知らねぇよ、もっと他の……」

他のやつと喋れよそんな事、と言おうとして、静雄は他の人名を何一つ思い出せないことに気付いた。一緒に酒を飲んだ上司の名すら思い出せない。テツガクやカガクなんていうがちがちしたものを喋るのに、もっと適した人間が、自分たちのそばにはいたはずなのに。
はっとなって隣を凝視する。夢の男は通路を挟んだ座席の肘掛に座って、足をぶらぶらさせていた。

「俺は君と一定のフィールドでやりあうために暴力を磨いたんだ。君だって俺のために、言葉を磨いたっていいはずだと思うんだけど。だってあまりにもアンフェアじゃない」
「アンフェア……?」
「俺たちの傍には誰もいないよ。本質的なところでは、誰も」

バスは相変わらず凄まじい速さで走っている。窓の外は大雨で、気付けば車内は真っ暗になっていた。窓ガラスをひっかくように、雨の筋が真横に一線、一線と引かれて行く。肘掛に、男はもういない。そのかわり静雄の耳のうら、柔らかいところで囁き声がした。

「誰もいないよ」

轟、とエンジンが噴かされる。静雄は耳を塞ぎ、腹の底から笑った。なんて夢だ。吐き気がする。




目覚めた静雄が最初にしたことは、生まれてから今までずっと使い続けて、慣れ親しんだ身体の輪郭を確かめることだった。右手をにぎり、足指を丸め、背骨を鳴らす。横たわったまま膝をかかえ、長身を折りたたむと、頭の中が雨の音でいっぱいになった。明け方だろうか。それとも午睡の時間だろうか。時は分からなかったが、意識はすぐに落ち着いた。寝る前の自分と今の自分は同じだ。自分は自分のままだ。大丈夫。

「……本当に?」

肺が冷え、喉がこく、と鳴る。かすかな衣擦れの音に寝がえりをうったら、部屋の隅で、臨也が同じように丸くなって寝ているのが見えた。殴りあったあとがある。いつも着ている黒いシャツのすそがめくれて、白い腹が見えている。

「……臨也、」

なぜか、その肌の感触を覚えている。静雄は不思議になって、さきほど確認したばかりの右手をもう一度、まじまじと見た。これは誰かの手なのかもしれない。けれど自分は確かにここにいて、臨也もそこにいるのだ。 そして、他には誰もいない。

密やかな寝息の音を聞きながら、静雄はじっと横たわっている。自分が、境界線が、部屋の隅の人間が、あらゆるものが溶けて交わり始めているのを、じっとしたまま感じている。雨音は遠くなったり近くなったりしながら、二人の部屋をすうと冷やした。そこには二人だけだった。他には誰もいなかった。