二人はビルの屋上にいた。狗木の黒髪が風になびく。感情の起伏が小さいのかと思いきや案外激昂もするし、今だってキャンディに(その七色について思いあたらないわけではなかったが)眉をしかめたままである。子供みたいなやつ、と静雄はちょっと笑った。
何がほら、なのかよく分からなかったが、静雄も首のボータイをむしり取りながら立ち上がる。どう考えても一昨日、店の出際にあったひと悶着がキャンディが入り込むチャンスだった。
「あのとき、……」
あいつマジ殺してやろうかな。勢いに任せて噛み砕いたキャンディが死ぬ直前に吐き出した甘さに苦々しい顔をして、静雄は部屋に残してきた悪魔にちらりと思いを馳せた。
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「寝てんじゃねぇよコラ、おい」
何度か腹をへこませるうちに胃液しか吐かなくなった。喉を焼くそれにのたうつ人間を見下ろす。純粋な怒りと微かな疲労、あるいはささやかな罪悪感か。内臓を陥没させられて死ぬのと雇い主の名を吐いて死ぬのではどっちが楽なのだろう。もし俺がひとりで捕まったら、ムショに向かう車の中で臨也の名前を言うつもりだ。最速の自白。
「飽きた、」
俺の後ろでふんぞり返っていた臨也が言った。自分で捕まえたくせに興味の失せた顔で傍観を決め込んでいる。まるで猫だ。気色悪い。
「……何やってんだ」
「爪切り。シズちゃん怒るからさあ」
「俺に仕事させといて、」
「たかが数発殴ったくらいで仕事もクソもないよ。胃の中カラになったんだからそろそろ言葉吐いてもらわないと」
まるで無関心、というポーズが一番効くことをこの男は知っている。左手の爪を切り終え、眠たそうに伸びをした。昔、道路で血まみれの猫を拾ったのを思い出して失笑する。呆れたことに殺人現場から出てきたらしいその猫は、固まるどころか月光を受けて艶めく赤色をまとっていた。おぞましさを綺麗だと思った俺は大概イカれている。
「言えよ。誰に言われて来たんだテメェ」みぞおちに一発。
「黙ってちゃ分かんねえだろ、吐けって」
身体をくの字に曲げてのたうつ男は、それはそれは不快なもので、正直言ってもう触りたいモンでもなかった。怒りにまかせて喧嘩するのとは違う。変に醒めた冷たい手で、頭を使いながら殴るのは―――――殴るのは。
「つまらない?」
音もなく隣にきてしゃがんだ臨也がぽつりと言って、上目遣いで俺を見た。
「まあ俺ももう飽きちゃったからね。紙みたいにペラッペラな忠誠心を至上の宝みたいにしてさ、あんたのボスにどれだけの魅力があるの。なんのメリットがあるの。あそこまで徹底して荒らすならもっとタイミングってものがあるじゃんか。あーほんと世の中敵だらけだよ、俺は世に尽くしてるのに酷い仕打ちだよ全く。ねえシズちゃん?」
「尽くしてねえだろ」
「じゃあシズちゃんに尽くすー」
「……やりたいだけだろお前」
「君の八割は野生のカンで出来てるのかな」
バチン!すさまじい悲鳴と肉の切れる音が臨也の手元から。しゃがみこんでいるので横顔すら見えないが、俺には奴のつむじを通して、凍りついたまま更に冷えていく微笑がみえた。のけぞる男が組織の名前を口走る。
「遅い」
何かにぬらつく爪切りを投げ捨てて臨也は立ち上がり、ドアをあけた。待機していた人間に二言、三言囁いて。ついに失神した男は抱えられて出て行った。爪切りも消えていた。ついでに床の汚れも。早業。
「……寄るなうっとーしい」
流石に疲れてソファに寝転んだ、のがまずかった。馬乗りになってきた臨也は口を尖らしている。どうやら酷く機嫌が悪いらしい。この男が声を荒げて怒るところを見たことはないが、子供のように眉間にしわを寄せるのはよくある事だ。根本的に自己中でワガママでサドで、自分の望みを遂行するだけの実力があるのだから手におえない。
「臨也」
首を絞めてやろうと伸ばした腕が僅かにブレて、耳の横の髪をぐしゃりと掴んだ。
「なに、ご機嫌取り?」
「……髪全部抜いてやろうかと思って」
「絞殺狙ったんじゃないの?ほら、」
ついさっき男にあんな悲鳴を上げさせたとはとても思えない手が、俺の手首をつかんで小さく動かす。
「俺の、首は、ここだよ」
本気で怒っているらしい、唇に歯を立てながら俺はもう一度失笑した。すべての始まりは、あの悪夢の月曜日。
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「Knock'n on the heavens door,」
バララララ、戌井が撃つと繋がって聞こえる銃声が曲の出だしを打ち消した。
「……but you know his name,don't you?」
「I'm」
「馬鹿じゃないの」
足元に転がってくる薬莢を蹴飛ばす。その足を軽く曲げてひざを突き込めば、素手で向かって来ていたスーツが呻いて腰を折った。足払い、くずおれるのに合わせてナイフを滑らせる。ピッ、と頬に生温かい感触が走った。実践は嫌いじゃないが、どうも楽しくない。――さっきまで凄く楽しかったのに。
「臨也ぁ」
「なに」
「怒ってんの」
「うん」
間抜けな戌井の問いに、どさくさで戌井を撃とうとしていた狗木が慌てて射線を変えた。ついでに、返事をした俺の横顔を見てシズちゃんが小さく舌打ちをひとつ。コンビ間の不仲?上手くいった瞬間に破滅する組み合わせもあるってものだよ。
「折原。残すのはアレでいいか」
狗木が油断なく構えた銃の先、肩を撃ち抜かれた男が呻いている。三下でも幹部でもなさそうな血まみれの顔。鷹揚に頷く。男は正確に足を撃たれ、死なないように口にタオルを詰められた。
「戌井、テーブルまで撃ちぬいてるんだけど」
「久々なんだよこの型」
「せっかく新しいの入れたのに。あーもうこの椅子だって新品だよ!」
「それ壊したの俺だぞ」
「シズちゃん!!」
床一面を染める粉々のガラスがいっそ清々しい。果敢にも素手で向かってきた二人を殴り飛ばし、シズちゃんはにやりと笑った。
「珍しくキレてんじゃねぇか」
俺はそこにあったフォークをなげつけ、
「気に入らないね。帝人くんとこのザコに汚されたから全部改装して、新しい酒と食器入れて、さあ夜通し遊ぼうかってときに殴りこみ?しかも深夜に?失礼にもほどがあるんじゃないの」
床に転がっているのは数十人といったところ。泥棒然として椅子の足を折る男を発見した時は流石に躰が冷えた。気がついた時には、夜中にも関わらずマシンガンをぶっ放す七色が見えたわけだけれど。
「臨也、これどうすんだよ」
「冷水かけて外に転がしとけば?氷漬けにしてシェイクして飲んでやる」
「大人げねえな」
「面白くない、ほんと面白くない」
いつもなら真っ先にブチ切れるシズちゃんと笑ってそれをなだめる俺、という構図が出来るのに、今回は妙に気の長い金髪に苛立った。殴り倒した男をまたいで平然を酒をあおりにきたシズちゃんの背に、手元に残っていたフォークを軽く突き刺す。
「いてぇ」
「痛いわけないじゃん」
「お前な、」
「寝起きはテンション低いってなにそれどんなキャラ?どこ狙ってんのシズちゃん」
「はぁ?」
ぷすぷすぷす。当然傷ひとつつかない。
「俺は傷だらけだよ気分的に」
「アホか」
「くたばれ」
「テメェが死ね」
「シズちゃんが死ね」
聞くとはなしに聞いていた残りの二人が少し笑ったのが分かって、俺は嘆息しながら壁のカレンダーにフォークを突き刺した。
「アンハッピーマンデーは今日限り。日曜までに叩き潰すよ」
「……よし、ぶっ殺す」
なんだやっぱり怒ってたんじゃん。皮肉気につり上がった唇に不意にキスしたくなった。