会議室を飛び出してから、脇目もふらずに走っている。苛々しているだろうとは思っていた。相手は自分よりも背が低く、よく言えば華奢、悪く言えば貧相なのだが、それでも怒ると怖いのだ。怒鳴ると窓硝子が震える。怒鳴らなければ空気が凍る。切れそうな目つきで睨み付けることもある。そうでなければ、絶対零度の笑顔で微笑んで怒るだろう。何が元ヤンだい、十分現役じゃないか!というのはいつも俺が提言していることなのだけれど、当の本人は決まってそれをスルーした。大人は流すのが得意らしい。
怒られるのが好きな人間はいるのだろうか、性癖とか嗜好とかの意味じゃなく。俺は嫌いだ。大嫌いだ。とりわけ、彼に怒られるのは。生理的に嫌いと言っても良いと思う。こればっかりは、子供のころの刷り込みだろうと俺は分析しているのだ。生まれたての雛が、初めて見た動くものをママと呼んでつけ回すようにね!インプリンティング、あるいは条件反射。イノセントで可愛かった元雛は、ださい眉毛のママに怒られるたび、胃が縮んでしまう。
「――っと、失礼!」
廊下の真ん中で立ち話をしていた部下を避けきれずに、そのまま人の輪をぶった切ってしまった。そんなところで話しているのが悪いんだぞ。全速力で廊下を走ってる俺も悪い?だって怒られるのが怖いんだ、ベイビー。
会議終わりに呑みに行こう。誘ったのは俺だった。紳士だなんだとマナーに厳しい彼は、こと飲酒に関しては引け目があるのか、公式には未成年であるところの俺が酒を飲むのを咎めたりはしなかった。もともと年齢という概念自体、俺達にとっては遊びのようなものだ。だからやろうと思えば、酷く達観しながら苦いワインを嗜むことも、チューハイとシャンパンのチャンポンで最高にぶっトぶことも出来るだろう。そこに名前の言えないスパイスが加われば、天国だって見える。馬鹿でハイなティーンエイジャーの『アルフレッド』の完成だ。もちろんヒーローの俺は、ハッパなんかは丁重にお断りするけどね。とにかく今日の相手はそのどちらとも違う、スコッチを延々と傾ける現役の変態紳士で、
「
まさかこんなに遅刻するとは思わなかったんだぞ!」
階段を3段飛ばしで駆け下りる。フライトジャケットが風にはためいて本当に飛んでいるみたいだ。うっかり顔をあわせた上司から解放された頃には、とうに待ち合わせ時間を大幅に過ぎていた。まず俺が思ったのは、彼に怒られる!という厳然たる恐怖だったのだから笑える話だ。俺は彼から独立したし、今となっては並び追い越しという状態だし、壁に追い立ててキスできるくらい体格差は歴然としている。それなのに、彼の厳しい―――それでいて甘い怒声を思い出すたび、小さかった頃を思い出しては縮こまってしまう。情けない、情けないぞジーザス!もっとも俺の恐怖する彼とて、つまみ食いをヒゲ面の隣人に怒られてしゅんとしているのだけれど(それはそれで悔しい話だ)。
最後の階段は5段を残して飛び降りた。凄い音がする。メタボじゃないぞ、ちょっと床が古くなってるだけなんだ!
別に殴られたとか、酷い折檻をされたとか、そんな風に怒られてたわけじゃない。多少げんこつを食らうことはあったが、基本的に彼は俺に対し、大人に語りかけるように叱った。やってはいけないこと、入ってはいけない場所、触れてはいけないもの。今思えば彼が対等な人間に怒るときは――フランスが良い例だ―――もっとずっと容赦が無いのだが、当時の俺は怒られながらもそれを喜んでいた。頭ごなしに怒鳴るんじゃない。何故駄目で、何故怒られているのか、それを彼は俺に分からせようとしていた。理屈っぽい彼らしいと言えばそれまでだけど、ちょっとだけ別の思惑もあるんじゃないかと俺は思っている。
たとえば、どうしようもなく独りだった彼の望みとか。
「―――イギリス!」
回転ドアなんて面倒臭いホテルで会議するのはもうやめよう。そんなことを考えながら焦れきった俺は、俺以上に焦れているだろう待たせ人の名を大声で叫んだ。
「イギリス!」
「うっせぇ」
ドアから飛び出た俺の前に、一台のジャグワが停まっていた。メタリックブルー。彼に言わせればジャギュア。どっちでも良いさ、だってスペルは同じだろう?
「上司に、つかま、たんだ」
「息切れ酷いぞ。おまえ、廊下爆走してきたんじゃねぇだろうな」
「風のように走ってきたんだぞ!」
「マナー守ればかぁ!つーか、むしろ遅ぇよ!」
マナーが悪いのはどっちだい。高級ホテルの前に堂々と光沢ある車を横付けしたイギリスは、偉そうに車体にもたれかかって立っていた。トレンチコートに細い紙煙草じゃ格好よすぎるってものだろう。顎を引いた彼が、森の色の瞳を細めてにやりと笑った。悪い顔。
「待ちくたびれたぜ、可愛い『アルフィー』?」
「もう1回言ったら運転させないからね」
「遅刻しといて態度がでけぇよ」
イギリスはその体勢のまま、右手を突き出したかと思うと、
「ちょっと!」
勢い良く中指をおっ立てた。ワオ!最低だね、俺の元育て親は!
「早く行こうぜアメリカ。怒られたいのか?」
じゃらん。開かれた手のひらには車のキー。黒いキーリングが中指に通されていた。指輪にしちゃ場所が悪いよ。
「冗談。待たせて悪かったってば」
結局のところそれだけが厭な俺は、精一杯の嫌がらせとしてレディにするみたいに運転席のドアを開けてあげた。どうぞ、マイブラザー?鼻歌でも歌いそうな顔で乗り込んだイギリスが、昔と全く変わらない笑顔でサンクスと口走る。ああ、テキサスが涙で曇るね全く!
「全力疾走する超大国なんて、なかなか楽しいじゃねぇか。見たかったな」
「そんなに慌ててる俺を見たら、君だって一緒にアワアワするのがオチだろうに!」
「なっ、しねぇよばか!」
「どーだか。君は俺が大好きだからな!」
「うっせえよメタボ!」
ぎゃんぎゃん言いながら車を出発させる。イギリスの運転はとにかくスピード重視で、一言でいえばルールとマナーをきっちり守るヤンキーの走り方だった。酷い矛盾だけどしょうがない。助手席に収まった俺は、彼がエンジンを踏み込む直前を狙って頬にキスをかました。怒られるかな、まあ良いか。今は寂しくないんだろう、とクールに微笑んであげるのは、彼が酔っ払ってからでも遅くないのだから。
英国英語で「ジャギュア」、米国英語で「ジャグア」ときて日本では「ジャガー」なあたりなんか可愛い高級車にもえた結果がこれだよ!