日に晒すことのない爪先が酷く白かった。薄く浮いた静脈を興味の無い目で見つめる。凍える五指と透ける表皮。俺に背を向ける下着のままのアニューが、タイルに膝をついてコックをひねった。
「熱いわ」
それは嘘だろうと思う。彼女の皮膚は限りなくひとに近く、そして遠いのだ。恐らく。推定の域を出ない邪推だが、ざ、ざと手をシャワーにかざして温度を確かめるその仕草は確かに、柔らかなおんなのそれだった。ほとばしる水の針がタイルをうつ。立ったままの俺の、膝下まで捲り上げたジーンズに飛沫が飛んでアニューが笑った。
「水を見ていると、」
「……うん?」
排水溝に一本の髪の毛が吸い込まれていく。渦を巻く紫を見ていたら返事が遅れた。軽快な会話を売りにしている身上としては些か厄介な感傷だ、これは。ひざまずいたままタイルを洗い流す彼女の背中に、たち上るような色気があって喉が鳴った。先ほどまで腕の中にあった、アニューの背骨。
「人間が海から発生したっていうのは本当かしら」
「信じていないのか?」
「確かめようが無いもの」
「宇宙にいると、海を忘れる」
「そうね」
アニューは海を見たことがあるんだろうか。爪先で軽くタイルを蹴ると、浸透してきた湯がひたひたと音を立てる。床上ほんの数ミリ、踝までのかさも無いその水を、誰かが最初に清浄と名付けた。たとえば噴水、神殿、―――冷たい水の行き渡った石の床に、ひとり立つおんなの神。
「宇宙は厭だわ、暗くて」
「深海みたいじゃないか」
「深海なんて馴染みも何も無いわよ」たとえそこから生まれたとしてもね。
あらかたタイルを流し終え、屈んだアニューはそのままバスタブにシャワーを向けた。乳白色の安っぽい浴槽に手をつき、底にある栓を探る。肩甲骨が浮き出て、さっき付けた噛み跡が鈍く光った。血の通ったひとの体躯、それは間違いなかったのに、洗い流せない嘘臭さがいつまでもこびり付いてはなれない。
「ライル、あなたは海が好き?」
「もし海から生まれたんなら、まあ好きってことになる」
「好きなほうが良いわよ、きっと。だって死んだら海に還るんでしょう」
どうせなら好きなところに還りたいじゃない。アニュー、と無駄に名前を呼んで振り返らせたが、結局膝が濡れるのが厭で目線を合わせられなかった。上目遣いになった彼女のまつげが瞬く。俺は立ったまま口を開く。
「……いや、俺は海には還らない」
「先約でもあるの?」
物凄く残酷な言い方をすればその先約はキャンセルされている。起こりえないエラーが起きて、俺が還るところはもう無くなってしまったのだ。ついでに言えば一緒に行く予定だったひとももういないし、
「後から迎えに行くはずだった奴が、先に行っちまって。……そいつが海に行かなかったから」
アニューは少しだけ唇を開き、何も言わずに閉じた。今彼女の中では何が走り回っているんだろう。詮索か同情か―――それとも俺のパーソナル・データか。あと何日、時々うつろになる瞳の色に気づかないふりをして、馬鹿なおとこのままでいれば良い。歯噛みを隠そうと作った表情はいつもどおりの微笑になる。こんなところまであんたに似てしまったよ。「皆に会えるなら、どこに還ったって良いんだ」
それを、あんた程強く祈ってたわけじゃないのに。どうして俺がこっちに残って(しまって)るんだ。
「……私は」
ようやく溜まりだした熱湯が薄く湯気を描く。アニューは目をそらし、ほとばしるシャワーの先をじっと見た。水だ。それは本当に君を生んだものなのかい―――聞けるはずもない。
「ねえライル。一緒に海に還りましょう」
疑惑と諦念を微笑にすり替えるのは彼女も同じだった。あっさりと手放したシャワーが鈍い音をたててバスタブの底に沈没する。無色の熱に座り込んで、海を知らないおんなが背中のホックを外す。
「……そうだな」
置いていかないで連れて行ってよ俺はどこにでも行くよ。世界中の全てを撃ち殺したら、迎えに来てよ。(エイミーには見せないようにちゃんと隠すから。あいつはまだ小さいから)
だからふたりで迎えに来て。
膝を折ってアニューに口付ける。近づいても埋めきれないこの違和感を、きっと俺は撃ち抜くのだろう。
海で満たされていく白い浴槽、それはもはや黒い棺だった。