刹那の歩幅を完全に読んでいるのだろうか、ハロは一度も刹那の足にぶつかることなく、それでいて上手く後ろから刹那を追い立てた。右足が降り、ハロが跳ね、左足が出て、ハロが降りる。纏わりつく球体は蹴飛ばされることを良しとしないようだった。陽気に刹那の名を歌いながら跳ね回る。その高低は、ハロが常に横を歩いている人間の時とはあきらかに違うもので、厭でもそのストライドの差を刹那に認識させた。

「・・・何処まで行く」
「モウスコシ!モウスコシ!」
「さっきもそう言った」
「モウスコシ!モウスコシ!」
「・・・・・」
久しぶりの地上は春のはじめで、街中が静まりかえる早朝に歩き回るには少し寒い頃。刹那は首をすくめてストールを巻きなおした。足は止めない。隠れ家にしていたアパートからかれこれ15分、一度も立ち止まらず歩いてきた。早朝すぎて信号もほぼ動いていないのだ。それなのにハロはひどく刹那を急き立てる。はやくはやく。もっとはやく。


朝霧に包まれた町並みはとても古ぼけていて、乾いた色のレンガ壁、赤茶けた石橋なんかが濡れたように鈍く光っている。時間の感覚も気温の感覚も、そういった何もかもを静寂で包み込んだ街。朝の街。刹那の息の音と、ハロが彼を呼ぶ声と、浮かれたように地面にぶつかる音と、刹那の足音と。風はない。太陽もない。刹那は自分が歩くだけの人形になった気がした。ひたすら足を回転させる有機物と喋る無機物。幼い頃にも自分が機械であることを望んだり錯覚したりしたことがあった、が、それとはまた違った;感覚だ。


そうやって自分を閉じたまま、ほとんど小走りになっていたからだろうか。街の終着点である砂浜にたどり着いたとき、目の前にいた有機物達に気付かなかった。

「遅ぇぞ、せつなァ!」
「!?」
「どんだけ必死に歩いてたんだよ。地面にいいもの落ちてたか?」
がばりと顔を上げる――――、一台の白い車が、砂浜に少しタイヤを埋め込ませて鎮座していた。
「トウチャク!トウチャク!」
ぽん、と大きく跳ねて、勤勉な案内人はとんでもないところに座っていた相棒の腕の中へ飛び込んだ。
「お疲れさん、ハロ!」
「ヨクヤッタ!ヨクヤッタ!」
「それは俺の台詞!」
「あんた、・・・・」
「ここは俺の席」
車の上、ボンネットどころではなく、天井の真上に座ってハロを受け止めた最年長の男はからからと笑う。子供のように足をぶらつかせながらハロの天辺に唇をつけた。ご褒美らしい。
「酔ってるんだよ」
ボンネットに腰掛けていたのはいつもどおり黒づくめの男で、灰色の瞳を細めながら刹那を見やった。そういう彼の手には半分ほど空になったウイスキーボトルが握られている。これは没収したんだけどね、と肩をすくめる仕草はいつもより大仰だから、彼もまた酔っているといえるかもしれない。
「酔ってねえよ」
「これ飲んだの貴方ですよ」
「舐めた程度だろ」
「舌が長いんですね」
「モンスター扱い!」
がつん、と揺らした右足の踵が派手にガラスを打った。刹那はそこでもう一度目を見張る。ウインドウが開いて、中から飛んできた不機嫌な声はここにいるのが信じられない男のものだったからだ。
「何度言ったらじっとするんだ、あなたは!」
「わり、」
「刹那・F・セイエイ!遅刻してきた分際で何をつったっている!」
「・・・・遅刻、」
「気にしないで、刹那には内緒にしようって言ったから」
「誰が」
「このヒトが」
「そうだ。この酔っ払いが」
「酔ってねえって」
「何の話だ」
「まあいいから座れよ、刹那」
「・・・何処に」
そもそも小型車にガタイのいい男3人が寄り集まっている時点で狭いのだ。真上もボンネットももう一人座れるだけの余裕はないし、運転席は空いているが助手席の男と距離が近すぎて気がのらない。発案者にじっと目をむける。
酔いがまわって薄っすら滲んだみどり色の瞳を輝かせて、男はにっこり笑った。
そうして男がすっと指したのは紛れも無く地べたで、
「…………」
「座んなよ、立て」
どうしようもなく理不尽な要求だった。意味が分からずに男を見上げるが、潤む碧をにこにこと細め、その腕の中のAIが楽しそうに耳を開閉するのを見れば、もう何も言えなくなってしまう。

刹那は譲歩として、車に背を向けてもたれかかった。ティエリアのことを考えての後部座席側寄り。あながち間違いでもなかったらしく、天井の主はすぐさま手をのばして刹那の髪をいじくった。左手。少しだけ残念に思い、少しだけ安堵する。
「前を見ろ、刹那」
「見ている」
「何が見える?」
「……海」
「いい青だ。そうだろ?」
「アオ?」
「濃紺、紺碧、なんつうのかな、沈む青だ」
刹那の髪をくるくると指に巻き付けながら男が笑う。ボンネットの男はぼんやりと2人を見ている。刹那にしてみれば、そのボンネットの彼の髪色をこそ沈む色、と呼ぶべきに思えた。朝焼けを知らない森の色だ。深く沈んだ青。藍色。

「海の果てを見ろ。何が見える?」
「何を、」
「いいから。刹那、あの境はなんだ?」
「水平線だ」
「そうだ。ちょっとだけ薄い紺。綺麗な紫」
むらさき、と息だけで単語をつむぐ。刹那は振り返らずに車の中を窺った。綺麗な、むらさき。重たい海と軽すぎる空、その空気を分かつ一線。重力と宇宙。かれと、ひと。
「ゆらゆらしてていいモンだろ。そんでもって刹那、」
ぐ、と軽い力で髪が引かれて刹那の顔が上をむく。視線が上がって、刹那の目玉いっぱいに新しい情景が映った。
「お前の上には、何が見える?」
「……あんた」
「の向こうだよ」
「……空」
「何色だ?」
「み、ずいろ」
「そう。青だ」
薄く白みはじめた空を背に、刹那の知る限り一番美しい色の目を持つ男が笑う。夜中はほとんど黒に近かった空は端から色を抜き、だんだんと爽やかな水の色をまといはじめていた。冷たく澄んだ蒼い色。透き通るほどの薄さ。見上げると空が丸い。男は笑う。わらう。

「この星は青い。あおいんだよ、刹那」

知っている、などと口に出来るはずもなかった。刹那の知る世界は、刹那が今まで走り抜けてきた道そのものだったからだ。砂と埃にまみれ、灼ききれた赤茶色と、錆び付いた鉄の色がすべてだったからだ。
「たくさんあるだろ、綺麗な青が、たくさん」
「・・・ああ」
「全部やる。お前に、この青を全部やるよ」
「俺に?」
刹那の髪を弄んでいた指が離れ、すっと刹那の頬を下った。細められた碧の瞳は、祝うように、歌うように、慈しむように、――――もしかしたら、なにかを惜しむように、刹那を見ていて。
「もう少ししたら、この空はお前が一番好きな青になるんだぜ」
「待てばいいのか」
「そうだな。ちょっと待てば――」
「そこに、」
「?」
何故だか堪らなくなって、刹那は男の指からするりと逃れ車に向き直った。沈む青を、綺麗な青を背に。透き通る青を背に。
「そこにあんたはいるんだろう。―――――そこにあんた達は、いるんだろう」
違うか――――。
「こんなに待たせておいて、先に帰れはありえないな」
「僕も見たいな。一番綺麗な青色」
「ハロモ!ハロモ!」
憤慨と苦笑という正反対の反応を返した二人と一体を見やり、そして全員が車の上に顔を向ける。ほんの一瞬笑顔を消した男は、頭上に広がる天空と同じ温度の笑みを浮かべて応えた。

「お前の生誕に祝福を、刹那」