「悪者は遅れてやってくるんだ」
駅前の小さな暗がりだった。また性懲りもなくこの街へ乗り込んできた野良犬一匹の話を、静雄は追い返せないまま、聞くとはなしに聞いていた。年の暮れ、冬の夜闇は、骨が軋むほど暗い。
「……ヒーローの間違いじゃねえの」
「ヒーローをどう定義するかによるな。正義の味方ってのは良いことをする奴だ。良いことってのは俺やお前が、」
「俺を巻き込むな」
「……俺やお前が、良いと思ってることだけど」
戌井の唇がにんまりと吊りあがるのを、静雄は忌々しく思いながら見つめていた。そもそも静雄は大人しく家に帰る途中だった。それを、たまたま上京(というには語弊があるが)していた戌井に、こんなに人の多い駅で呼び止められたのだ。
人の数だけ苛立ちはあれど、その波の中をすいすいと泳ぐ虹色の犬は、渋面と驚愕をないまぜにする静雄を、待ち人の体で暗がりにひっぱりこんだ。
「ヒーローは良いことをする奴、それが先だ。ヒーローは遅れてなんか来るかよ。世界の希望、無形の憧れ、万能感への投影、象徴、ヒロイシズム!ガキが夢いっぱいで思い浮かべるモンと一緒だ」
「だから何だよ」
「だからよ、悪い奴ってのは、つまり『良いことをしない奴』だ」
静雄は壁に身をもたれかけ、ふうと大きく煙草の煙を吐いた。灰色の渦がゆらめいて空に散らばるのを、星にも届かない、と嘆いてみたくなった。とんだロマンチストだ。
「良いことをするヒーローっていう前提があって、逆説的に、良いことしねぇ奴、『ヒーローじゃない奴』ってのが悪者だ、ワルモノ。悪の組織だ。な?分かった?」
「悪い奴が先で、『悪いことをしねぇ奴』がヒーローだってことにもなるんじゃねえの」
「……静雄って意外と冷静」
「殺すぞ」
「やーだね」
駅からは、怪物から逃げるネズミのように、途切れることなく人間が繰り出されてくる。人、人、人、惰性で夜に押し流される脳みその、その数だけヒーローはいるのだろうか。誰もが無意識に描いている『正義の味方』。
「でもまあ、コイツは俺の華々しい映画経験論から導かれた理論だし、それにこうも言うだろ。『事実は小説よりも奇なり』」
「は?」
「悪者は遅れてやって来るんだよ」
戌井はすっと右手を出して、駅からまっすぐに歩いてくる――黒い、男を指さした。

「な?」

男は両手にナイフを持ち、やあシズちゃん、と微笑んだ。
―――――――――――――――――――――――――――――
戌井の思うところには

ななく唇が酷く扇情的に見えたのだけれど、そう思ったのは一瞬で、まばたきひとつを終えるころには、ただの器官ひとつに欲情したことすら忘れていた。味気ないものだ。味気ないといえばこの部屋の玄関も相当味気ない。黒いドアは外開きなので、半身が外に出てしまっている俺は、ちょうどドアに押し出されるような形になっている。

高級マンションなんていっても広いのは部屋の中とエントランスぐらいだ。その広い部屋からも追い出されようとしている俺は、どれだけ邪魔な存在なのかと自嘲したら、微笑みのかわりにくしゃみが飛び出て、それでまた部屋の主の唇が少し震えた。わななく唇。良い。

ドアノブを掴んだ白い手は筋張っている。女のそれとは明らかに違うのだけれど、指がすらりと長く、骨が綺麗に浮き出ていて線は細かった。薬指と小指の爪だけが不自然に長い。昨日の夜、爪切りの途中で邪魔が入ったことの証だった。邪魔をしたのは俺だ。半端に残った二本の爪は、そのあと幾度か俺の背中に傷をつける結果となって、因果応報というのはあながち嘘じゃないんだと俺は思った。

部屋の奥からつけっぱなしのテレビの音がかすかに聞こえている。狙ったような波線を描いてさざめく笑い声と、ひとりでから回る司会者のだみ声。さっきまで二人で眺めていたのに、今じゃすっかり無人になった部屋で、あの魔法の箱はつまらない番組を垂れ流しているのだろう。

そうくるとこの男に追い出されかかっている俺というのは、俺自身とこの男、それからテレビまで不幸にしているのだから、なんとも罪深い生き物ということになる。邪魔な上に罪深いとは。

そういう業の深い俺を玄関までおっ立てて、先刻までさあ帰れ帰れと威勢のよかったこの男は、黒いセーターの肩を上下してみせる。鎖骨が浮いて、また戻った。

どういうつもりで俺を呼んだのか知らないが、またどういうつもりで俺と寝たのかも知らないが、そのあたりを聞くつもりはなかった。今更だと思ったし、まだ早いだろうとも思った。俺に分かるのは、俺が帰った後一時間もすれば、乱暴者の金髪がここに押し掛けてくるのだろうということだった。

格好良く言えば間者だが、率直に言うと間男だった。情夫、ヒモ、イロ、日本語のまわりくどさについて一度この男と話してみたかったが、言葉繰りを本業にする人間に語らせたら、また無駄にはぐらかされるに決まっている。

手っ取り早く胸倉を引き寄せて唇をぶつけたら、舌を突き入れる間もなく男の携帯が鳴り始めた。忙しいやつめ。顔をほんの少し離して微笑んだら、今度は最初と違った感情でわななく唇が見えた。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――


臨也の思うところには

くらば、という言葉を、どこで最初に聞いたのかは忘れたが、なんとなくその響きが卑猥であると思ったのは確かだった。卑猥だと言ったのは目の前のこの男かも知れないが、とにかくそういう余計なことを考えていれば、ふるりと震える唇のことを気にせずに済むかと思っただけだ。狡い計算は、大概の場面において失敗するものと相場が決まっている。

男は俺の唇をちょっと馬鹿みたいな顔で見た後、歪んだ顔でくしゃみをした。単純に寒かったのか、それとも他の何かなのか、悪意の関わらない表情というのは、いつになっても読みづらい。職業病に嫌気みたいなものがさして、それでまた少し唇が震えた。

外からドアノブを掴んでいる男の手は堅い。女のそれと比べるなんて酔狂にも程があった。指は長いが、一般人ならおおよそ出来ないようなタコや切り傷がいたるところにくっついている。銃器を扱う手だった。昨夜俺を邪魔した手だった。おかげで爪切りが進まなくて、結果として男の背に色んなものを残すことになったが、反省しているのかどうかは知らない。俺はしていない。する必要もない。

ただ、半端に残った二本の爪の中に、男の背の細胞だとか、皮膚だとか、あるいは名残り、雰囲気、執着、そんなものが入り込んだと思うと、少しだけ下腹が熱くなった。

部屋の奥からはつけっぱなしのテレビの音がかすかに聞こえている。たくさんの人間が好き勝手に喚いているのに、どれひとつとして言葉が言葉として聞こえない。よくも悪くも、今この場で俺の耳に言葉を吹きこむのはこの男だけだった。先ほどから妙に殊勝な顔をして黙っているけれど。

鉢合わせほど面倒なものもないと思って、さっさと帰りなよこの駄犬、などとふざけて追い出しにかかったのに、この男は相変わらずへらへらと笑っている。どういうつもりで俺に呼ばれたのか知らないし、またどういうつもりで俺と寝たのかも知らないけれど、そのあたりを聞くつもりはなかった。今更だと思ったし、まだ早いだろうとも思った。俺に分かるのは、この男が帰った後一時間もすれば、最低最悪の金髪がここに押し掛けてくるのだろうということだった。

街にばらまいた仕掛けがそろそろ動く頃だ。この男は、寒々しく言うと悪友みたいなものだが、率直に言うと間男だった。情夫、ヒモ、イロ、或いはヒマ潰し、日本語のまわりくどさには俺も往々にして助けられているところなので、今更男の存在の呼び名について話してみたいとは思わない。はぐらかすし煙にも巻く。駄犬に言って聞かせるには、長すぎて馬鹿馬鹿しい。


俺とこの男が「なに」だなんて、そんなことはどうでもいいのだ。


ふっと気を抜いた瞬間に胸倉を引き寄せられて唇がぶつかった。舌が来るのかと思って口を薄く開けたら、腰のあたりで携帯が鈍く振動を始めた。忙しいことだ。男がほんの少し顔を離して微笑んだが、そこにはほんのわずかな怒りのようなものがうっすらと色づいている。

気付いた瞬間、唇がまた震えた。すこしだけ。