らかく膨らんだ雫の先が、今か今かと落ちるときを待っていた。安っぽい銀色の蛇口から、決して透明では無い水道水が顔を出す。もう少し、もう少し、もう少し、じりじりとそれは膨らみ、重みを増して、

「……あ」

落ちた先が海なら或いは、ぴちゃん、なんて可愛い音がしていたかもしれない。それか全くの無音、誕生したことにすら気づかれずに落下して、個としての位置を失ったのかもしれない。その他大勢に組み込まれる恐怖。僕も君も何も変わらない。僕と君なんて括りもおかしい。なんて。

「なんてね」
「……嘘か」

残念ながら雫が落ちた先は生温かいタイルの上だった。びたん、と水滴が破裂する音がした。もちろん見えてたわけじゃないけど、ミルククラウンなんていう素敵な死に際じゃなかっただろう。どうして人の目はこんなに愚鈍なのか(雫の行き先ひとつ捉えられない)、ため息をつきながら顔を正面に戻せば、嫌そうな顔をした戌井と目があった。

「嘘だよ」
「何のことか分かってねえくせに」
「分かってるよ。ちゃんと気持ち良いよ、俺」
「仏頂面でか」
「馬鹿馬鹿しくなっちゃってさ」
「だろうな」
「何のことか分かってないだろう?」
「風呂場で押し倒されてる状況だろ?」
「そう思うなら退いてくんない」
「違うのかよ」
「さあね」

頭の上に伸ばしたままの右腕を、ずずっと動かして蛇口の下に置いた。ぴちゃ、と雫が落ちてくる。見えはしない。性能が悪すぎて嫌になる。戌井はちょっと考えた後、思い出したように俺の首筋に歯を立てた。見たいものが見えず、いらない感覚ばかりが血管を這う。そうして俺はまた、嘘っぽい嬌声を台本に組み込むのだ。
 

 

--------------------------------------------------

 

 

 

鬱の色を知っている人間は美しいよ。それだけ言って口をつぐむものだから気になって振り向いてしまったが、……よく考えれば別にどうだって良かったのだ。もとより己の美醜に拘泥するタイプでも無い。美しいに越したことは無いのだろうが、その基準はあくまで第三者にあるからだ。自分の場合、その審判を下すのは絶対的に実弟だった。私の弟。わたしの、おとうと。美醜も愛憎も血族もを超えた、おとうと。案の定雇い主の男は、君には関係ない話かなと言って微笑った。そうね関係ないわね。まあ君は、綺麗だとは思うよ。どうでも良いわよ。目の前の男が緩く唇を曲げる。微笑と無表情のぎりぎりのところで嘲笑うとは器用なものだ。あなたがご執着の静雄はどうなのよ。質問もおかしかったが、……シズちゃんの人生っていっつも憂鬱そうだよね、なんていう返答もおかしかった。じゃあ静雄は美しいってことかしら。音の響きに首筋が粟立ったが、男は一切表情を変えずに頷いてみせた。俺ならさっさとやめちゃいたいくらい憂鬱そう。……あなたがいなければもっと幸せだったんじゃない。言いかけて飲み込んだのは多分正解だった。静雄が幸せになれば、この男はきっと憂鬱の色を見失うのだろう。

 

 

 

 

 

 

--------------------------------------------------


 ばれたと勘違いしたのか、寝そべっていた犬がぱっと顔を上げた。残念ながらお前じゃねえよ、悪いな、なんて心の中でつぶやきながら、犬の向こうから歩いてきた上司に軽く頭を下げる。言われてみれば犬についてても変じゃない名前だよな。

「どうした?」
「いや、……犬が」
「何だお前、置き去りかー?」

トムさんは涼しげな表情でしゃがみこみ、電柱につながれた犬と視線を合わした。俺じゃないのかよと再び伏せた犬が訝しげに彼を見る。吠えるでも喜ぶでもない、完璧な無感動具合。紐ついてますから置き去りじゃないでしょうと言うと、そいつも同意するようにくうんと言った。

「買い物にでも行ったかな」
「でしょうね」
「案外知り合いの犬だったりしてな」
「……どうですかね」

まず二人ほど知り合いの顔を並べてみるが、犬を実験に使ったり生贄にしたりしそうなメンツだったので想像を止めた。気持ち悪い。

「じゃあなー、お前、大人しく飼い主待ってろよ」

犬の方も分かってはいるのだろう、もう一度くうんと言って寝そべる。自由な奴。綺麗な黒色で、細身だが都会にはちょっとめずらしい大型犬。こういう忠誠心って格好いいよなとトムさんが言う。

「忠誠心ですか」
「俺は自分の理性に忠誠誓ってる」
「はあ」
「……。お前は?」

忠誠心なんて有りませんよと流して犬に手を伸ばした。いなけりゃいないで平気にしてるくせに、構うと嬉しそうにするものだから可愛いのか、と何となく思った。犬を実験に使いそうな奴は自分の変態性に忠誠を誓い、たまに会うとちょっとだけ会話が弾む。なるほど。

「こいつ結構キツい顔してますね」
「地獄の番犬かもよ」

いい加減眠らせてくれと目で訴えてくるので撫でる手を止めた。お前地獄の番犬か。それならちゃんと、そこにいる悪魔を見張ってろよ。

「……動物とかを生贄にして悪魔に忠誠誓った奴って、最後死にますよね」
「は?多分な」
「そりゃ良かった」

オイ頼むぜ犬。届かないながらに念じてみるが、犬はとっくに眠りについていた。まあ、そんなもんだよな。