「聞いてくれ聞いてくれ、これはドラマでも映画でも小説の中の話でもないんだ。腹の中をくすぐられてるみたいなエッセイでも、思わず参考にしちまいそうなロマンスでもない。俺の話だ。俺に起こった話で、嘘じゃない。嘘じゃあ、ない。
今朝は涼しかっただろう。起きたらつま先がひゅんとして、なんだか今朝は冷えるなあと思った。そのままの流れで隣に眠る美女を抱き寄せようとして、ああ昨日はひとりで寝たんだったって思い出したのさ。伸ばした右手が冷たいシーツを撫でたからな。え、俺の話はまわりくどいって?それは悪かった、でも本当に冷たかったんだ。まあ聞いてくれって。独り寝の寂しさを朝っぱらから思い出した俺は、頭をがしがし掻きながらキッチンに向かった。水を一杯、それからフライパンをコンロにかけて、火をつけてから冷蔵庫を開ける。いつもどおりの朝のパタンだ。もちろん恋人が寝てる場合は、すぐさま着替えて市場に向かってるところだよ。新鮮な果物、バターにカフェオレ。全部そろえて恋人を起こす。そのくらい朝飯前さ、文字通りな。
ああ話が逸れた。そうそう、俺は冷蔵庫を開けて、そこでふっと思ったんだ。あれ、俺は今何をしようとしていた?ってな。俺の手の中には卵がふたつ握られていた。それが卵だってのは分かるんだ。白くてつるんとした良い卵だった。卵だってのは分かるのに、そいつで何をしようとしていたのか忘れちまった。忘れたというか、分からなくなった、というほうが正しいかもな。卵だ、卵を、どうすりゃいいんだ?俺は一瞬途方にくれたよ。まあハムの塊が目に入った瞬間、ああそうか炒めりゃいいのか、って思いなおしたけどな。不思議な感覚だったよ。寝ぼけてたとしか言いようがないな。
ここまでは朝の話。なんとか朝食を完成させた俺は、さっさと着替えて仕事に出かけた。いつもなら簡単なランチボックスをつくるんだけどな、なんとなくやる気が起きなくてコーヒーすら淹れなかった。俺はマメな方だけど、やる気にムラがあるってのはお前も知っていることだろう。仕事というのはご存じのとおり、EUだけの長い会議だよ。いつもどおり少しだけ遅刻して、進むような進まないような、どろっとした会議に参加した。時折口を挟んだし、助言と牽制だってお手の物さ。お前がわりと静かだったから、たいして喧嘩もしなかっただろ?あの超大国のぼうやが絡まないと、お前は年相応というか、何でもそつなくこなしちまうからな。痛ぇな、殴るなって。
昼はデリで買ってきたサンドイッチと、まずいコーヒーだった、何を隠そうお前本人とサシで食べたから、―――ああ俺だって不本意だよ!―――このへんは割愛するけどよ。俺はその時、実は困惑してた。サンドイッチって、どうやって作るんだ?エビとレタスのサンドイッチだぞ、今考えれば具を挟むだけなのにな。パンプキンサラダの方は、もう完全にお手上げだった。原材料が何かは分かる、ただ調理の仕方だけが分かんねぇ。
ああもういいか、そんなに嫌そうな顔すんなよ。分かった分かった。簡潔に言うとだな、俺は料理のレシピを忘れている。ひとつずつ、それも手の込んだやつじゃなくて、日常的に食べるような、軽食のレシピを、だ。ハムエッグにサンドイッチ。パンプキンサラダ。魚を揚げるだけで大事故になってるお前からすればフルコース並みの御料理かもしれないが、俺にとっちゃあ寝てても作れるようなレシピだよ。これがどういうことが分かるか?
……そう、ここにきて、いつも俺がお前に口を酸っぱくして言ってるような、俺の論理が証明されるというわけさ。忘れたとは言わせないぜ。そうだよ。料理は愛だ。愛がなくっちゃ、料理は出来ない。お前の料理がいつも崩壊してるのは、お前の愛が崩壊してるからに他ならない。それは1775年に身を以て知っただろ?……殴るなよ。
今の俺には愛がない。愛が足りない。というか、愛がひとつずつ減っていってるんだ。指の隙間からぽろぽろってな。これは困った。ああ困った。なあ、俺、平気な顔で喋ってるけど、ほんとは泣き叫びたいくらい混乱してるんだ。ヨーロッパの兄と名高いこの俺が!
なあ、というわけだから、今後一切、おまえに分け与えてやるような愛ってのはもう無いと思ってもらいたい。見返りのない愛のバラ売りより、食い物に変換されるレシピの方が俺は大事なんだ。もう嫌だ。忘れるなんてこりごりだ。何回キスしても何回抱いてもなびかないような、疑心暗鬼に凝り固まった眉毛野郎に、貴重な俺の愛を渡し続けるのはもううんざりなんだ!
そうだよ、これは別れ話。さよなら眉毛さん、恋人ごっこはもうおしまい。じゃあな。え、明日の昼?また同じところで良いんじゃねえか。ああ、明日こそはちゃんと作ってくるよ。お前に愛を注ぐのをやめた分、明日は美味しいサンドイッチの作り方を、ちゃんと思い出しているはずだから」
「……おまえは、」
黙って聞いていたイギリスは、ようやくそう言うとちょっと口を噤み、それからにこりと笑いました。
「馬鹿だな」